さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

(14)ローマ帝国の内乱と統一(1)

2020-02-16 | ユダヤ人の旅

スパルタカス(生年不詳~BC71年)

BC146年、ローマは最大の難敵カルタゴを滅ぼすと、その勢いでカルタゴと手を組んでいたアンティゴノス朝マケドニアを属州化し、地中海沿岸を手中に収めた。しかし、国内では貧富の格差が拡大し混乱していた。共和制による元老院も手の施しようがなかった。各地戦場からの捕虜や、税金を払えない属州民が奴隷となりローマは奴隷であふれ、奴隷を使役した大規模農場は農夫の職を奪い、地中海には海賊が横行した。一方でローマ人の娯楽のため闘技場が建てられ、剣闘士の奴隷が仲間や猛獣と殺し合いをさせらていた。BC73年、そんなローマの混乱を象徴する事件が起こる。

「ローマ人の見世物になるより、ローマ人と戦おう」トラキア出身の剣闘士スパルタカスが脱走を呼びかけると200人の剣闘士が従った。油断していたローマ軍を襲い武器を手に入れ、町々を占領すると各地から多くの奴隷たちが収穫物をもって集まり、たちまち奴隷軍は2万の兵力になる。奴隷たちの中には知識人も技術者もいた。縛られた鉄の鎖は武器工場で武器に生まれ変わる。こうして最大12万人に膨らんだが、食料や物資は追いつかない。アルプス越えにも失敗し、目指したトラキアもローマ軍に落ち、シチリア島にも渡れなかった。持久戦に持ち込むクラッスス率いるローマ軍に、スペイン遠征軍ポンペイウスが加わり、最後の抵抗も及ばずスパルタカスは戦死した。蜂起から1年半、生き残った6千人の奴隷兵は全員磔の刑となる。

 

ユリウス・カエサル(BC100年~BC44)

奴隷軍を鎮圧したクラッススとポンペイウスは犬猿の仲であったが、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)を加えた3人による「三頭政治」が成立した。カエサルは娘ユリアをポンペイウスに嫁がせ手を結んだ上、武功と莫大な資産を求めてガリア遠征を敢行した。現在のフランス、オランダ、ベルギー、西ドイツのガリア人はローマの支配と圧政に激しく抵抗した。戦いは7年にも及んだが征服する。ガリアの英雄ウェルキンゲトリクスは万策尽きて投降し、処刑された。その後、カエサルはドイツ、イギリスにも遠征した。

カエサルの遠征中、三頭政治の一頭クラッススはポンペイウスが果たせなかったパルティア遠征を強行したが失敗し戦死する。また、ポンペイウスと結婚した娘ユリアが産褥で亡くなる。三頭政治は崩壊、カエサルとポンペイウスの対立が始まる。ポンペイウスは元老院と手を結び、カエサルの軍事権を剥奪、ガリアからの帰還命令を出した。事実上の解任処分である。この命令を受けたカエサルはイタリアとの境界ルビコン川を前に精鋭に宣言、「神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ進もう!賽は投げられた。」と檄を飛ばした。反旗を翻したカエサル軍に対してポンペイウスはローマを離れギリシャで戦うことにした。留守になったローマはカエサルのものになった。

 

絨毯の中から現れたクレオパトラ

カエサルはポンペイウス派の元老院の支配下にある都市を平定し、後顧の憂いをなくしポンペイウスと雌雄を決するためギリシャに進軍した。兵力ではカエサル軍はポンペイウス軍に及ばず、始めは敗退を喫したが、ローマ内戦の最大の戦いと言われるファルサルスの戦いでは戦術で上回り勝利した。ポンペイウスは自分に協力的なエジプトを目指したが、エジプトではポンペイウスが来たら殺害することに決定していた。ガレー船でアレクサンドリアに着いたポンペイウスは刺客により殺害された。エジプトはクレオパトラ7世と弟のプトレマイオス13世が共同統治していたが、二人は対立していた。カエサルがポンペイウスの後を追ってアレクサンドリアに着いたのは数日後だったが、プトレマイオス13世の従者がポンペイウスの首を差し出すと激しく怒り従者を殺害する。

宮殿を占拠したカエサルを相手にローマと手を組みエジプトの存続を図りたいクレオパトラは一計を案じる。自らを絨毯に包んでカエサルの前に運ばせる。絨毯から現れた21歳の美女に52歳のカエサルは息を吞んだまま動けなかった。クレオパトラの計略は成功し、カエサルを魅了した。これを知ったプトレマイオス13世は怒り心頭に発し、王冠を地面に叩きつけたという。王は軍隊を出したが、エジプトに到着したローマ軍との「ナイル川の戦い」に敗れ戦死した。カエサルの愛人になったクレオパトラは女王に、敵対していた妹アルシノエ4世は捕えられローマに送られる。クレオパトラにはカエサルの子カエサリオン(エジプト最後の王)が生まれた。

 

~~さわやか易の見方~~

「雷沢帰妹」の卦。帰妹(きまい)は若い女が活動的な男に嫁ぐことだが、あまり良い結婚ではない。易では女は受け身であることが良いとされ、女の方から積極的に働きかけるのは良い結果が得られないとする。結婚は一時のものではなく、永続することが大切である。結婚に限らず、道に背いてもその場だけしのげば良いと考えるのは間違いである。

クレオパトラの安泰は束の間だった。詳細は次回に譲るが、頼みのカエサルはクレオパトラ25歳の時暗殺される。その後、27歳で今度はアントニーの愛人になり、3人の子を儲ける。しかし、39歳の時アントニーとともに自害に追い込まれた。世界の美女と後世に呼ばれたクレオパトラだが、幸福な生涯とは言えないだろう。それでも時代の荒波を綱渡りのように渡り、その時代の二人の英傑の心を奪った。二人の英傑が虜になったのは美人だったからだけではない。6か国語を巧みに話すことが出来た才媛でもあり、教養も抜群だったという。ギリシャ出身である歴代プトレマイオス朝のエジプト王、女王の中でエジプト語を話せたのはクレオパトラだけだったという。でも何と言ってもクレオパトラには他の誰もまねの出来ない胸騒ぎの腰つきがあったからだろう。いつの時代も男たちは胸騒ぎの腰つきには弱いものなのだ。

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