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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

「小熊秀雄との交友日記」に見る旭川ゴールデンエイジ・その2

2020-05-06 19:00:00 | 郷土史エピソード


前回から、旭川や名寄などで教員生活を送りながら詩や短歌の創作を続けた小池栄寿(よしひさ)の手記「小熊秀雄との交友日記(以下「交友日記」)をテキストに、大正末〜昭和初期=ゴールデンエイジの旭川について紹介しています。
後半は昭和3年の正月の記述からです。


                   **********

<昭和3年1月>


 一月三日。円筒帽新年詩会を午後六時から北海ホテルで開く。(中略)
例により塚田君の酔っぱらいの詩に会は始まる。十時少し前だったろう。塚田君の歌に鈴木君のギター。小熊君が裸踊りをしたが。その後で僕が「詩人のうぬぼれ」について話し出した。それは塚田君の僕に贈る詩に原因する。所が僕大いに酔いがまわり立っておれないので中止、塚田君の膝に倒れる。二人で廊下に出たまではおぼえている。気がつくと倒れていて流汗淋滴、汗をぬぐうと血だ。廊下で倒れる時、鼻のあたりを打ったらしい。塚田君自動車を読んでくれて唐沢病院へゆくと休んでいる。竹村病院へゆき手当てして貰い再びホテルへ。散会していた。
(註、この夜の小熊君の裸踊は妖怪な面をつけ、痩せた肋骨もあらわな上半身裸体で、危機の迫るものがあった。)(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)


*「バカ男子」・・・
「交友日記」には、こうした若者らしいハメを外した場面もたくさん登場します。いわゆる「バカ男子」というところでしょうか。今は馬鹿げたことをやってSNSなどで発信し、叩かれる若者のことをたまに耳にしますが、我々の若い頃は、もう少し社会全体が寛容だったように感じます。ゴールデンエイジの若き詩人たちも、同じような環境でかなり伸び伸びと行動させてもらっていたのではないでしょうか。実はワタクシも栄寿や小熊とほぼ同じ年頃だった時代、似たような流血騒ぎを経験したことがあり、このくだりを初めて目にした時は、思わず苦笑したものです。
文中の唐沢病院は、大正15年に4条通9丁目に開業した病院ですね。今も同じ場所にあります。竹村病院は明治32年、1条通5丁目に開業した歴史ある病院で、2年後、4条通12丁目に移転、昭和に至るまで長く旭川の医療を支えました。建物のシンボルだった六角堂は、現在、旭川市彫刻美術館脇に移設されています。
それにしても小熊の裸踊り、興味を惹かれます。



画像22・竹村病院(明治30年代・頃旭川市中央図書館蔵)


<昭和3年3月>


 三月四日。日曜。塚田武四君が淳三氏と二人でビールにスルメ桜餅をもって来訪。銚子五本ビール一本あけて五時近く家を出る。酔っているので向うから来た酔っぱらいに衝突する。ウイスキー一本求め小熊氏の所へよろめきながらゆく。子供らが面白がってついて来る。小熊氏と四人家を出る。武四外套なし。俺と二人でかぶってゆく。ユニオンパーラーでホットオレンヂ。初めておぢいさんの食堂に入り、電気ブラン一杯、湯どうふ、ライスカレー。次にヤマニへ。ホットオレンヂ。変な髭の男が皮肉を云う。携帯したビールを一本やりウイスキーを征服。(中略)。再びユニオンでコーヒー。十一時帰宅する。(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)


<閑話休題その③・よく飲み!よく食べ!>


これもバカ男子の部類ですね。ここにもある通り、栄寿たちはとにかくよく飲み、よく食べています。どんなものを飲み、食べているか、イベントのこうと同じく、リストアップしてみました。店名、栄寿たちが飲食したもの(かっこ内は「交友日記」に出てきた回数)の順で書いてあります。


(カフェー)
・「ユニオンパーラー」 コーヒー(9)、ホットレモン、牛乳(4)、生ビール、ビール、スイトポテト(3)、紅茶(2)、日本酒(4)、ハヤシライス、カツ(2)、ホットオレンヂ(2)、ランチ、黒ビール
・「ヤマニ」 コーヒー(5)、生ビール(4)、紅茶、アイスコーヒー、日本酒(2)、牛乳、汁粉(2)、ココア、ホットオレンヂ(2)
・「2条8丁目仲のカフェー」 生ビール
・「喜楽」 紅茶
・「当八軒」 日本酒

(喫茶)
・「ジュエル」 コーヒー(2)、冷たいレモン、生ビール、チキンライス、野菜サラダ

(料理店)
・「旭川局前(おそらく電話局の前の店の意味)」 支那そば
・「国技館近くのそば屋(国技館は3条通7丁目の映画館) 日本酒、そば
・「平野(洋食屋)」 日本酒(2)、コーヒー、ホットオレンヂ(2)、汁粉
・「ちよだ」 日本酒、リンゴ
・「国技館横の家」 日本酒、そば
・「百足屋」 日本酒、そば
・「おぢいさんの食堂」 電気ブラン、湯豆腐、ライスカレー
・「よしのや(おでん屋)」 日本酒、焼き鳥
・「よしや」 焼き鳥

(その他)
・「ニコニコ」 コーヒー(3)、生ビール、アイスコーヒー
・「第二神田館前(第二神田館は3畳通8葉目の映画館)」 ソーダー水
・「三浦屋待合(三浦屋は駅前の旅館・食堂)」 コーヒー


まずは飲み物。やはりお酒では、生ビールと日本酒。ノンアルコールでは、コーヒー、紅茶といったところが中心です。ホットオレンジ、ホットレモンというのも目立ちます。寒い旭川ならではなのでしょうか。旭川にゆかりの深い電気ブランも登場しています。
食べ物では、ライスカレーにハヤシライス、カツにチキンライスと、この時代すでに洋食が定着している様子が窺えます。
それにしても甘いものから辛いもの、和食に洋食。
よく飲み、よく食べてエネルギーを補充しながら、街を闊歩していた若者たちの姿が目に浮かびます



画像23・カフェーや飲食店の多かった4条師団通界隈(昭和2年・絵葉書)


<昭和3年5月>


 五月四日。小熊秀雄氏、四時頃秋山君と二人で来る。今朝帰旭せる由。一緒に氏の所へ。夕食を共にす。母上の来旭前に上京する由。(中略)。
 五月六日。塚田君が今夜半大阪に行くと云ふ。夕食して小熊氏を訪えば野島淳介、黒杉佐羅夫、森川、黒崎の諸君が来ていた。丁度鉄橋の向うのゴミ捨て場に火がつき大騒ぎしていた。僕は氏を訪れる前に橋の上まで行って水に反射する壮観を眺めた。十一時、小熊氏と停車場にゆく。塚田大人は娘さん達と自動車で武四君を送りすぐ帰られた。(中略)。
 五月十九日。塚田武四、彼れ酔っぱらいではあるが彼の居るうちは力強かった。然るに彼は大阪に去り、小熊氏また東京に近きうちに去らむとす。ひとり旭川に残される円筒帽詩人  淋しいとも淋し。(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)



*「別れの季節」・・・
昭和3年春、大正末から続いていた旭川の若き詩人たちの〝狂騒〟の季節も終わりが近づいてきたようです。
この時期、日記にある「小熊の帰旭」とは、父親の死去にともない、樺太に行っていた小熊が戻ったことを指しています。これをきっかけに、折り合いの悪かった継母が旭川に転居するつもりであることを知った小熊は、その前に妻子と共に上京することを決意、栄寿に伝えたわけです。
そして塚田武四もまた、故郷を去ることを栄寿に告げます。この頃、今野大力や鈴木政輝は東京在住です。一人残される形となった栄寿の切ない思いが文章に現れています。
なお文中にある森川は森川武義、黒崎は黒崎信と思われます。ともに旭川の黒色青年同盟のメンバーで、小熊の家にいたということは、どの程度かはわかりませんが、交流があったことは間違いないと思います。前半で彼らがヤマニで小熊に因縁をつけたエピソードが登場しましたが、そのことで縁ができたのかもしれません。


<閑話休題その④・ダダイスト塚田武四>


ここで地元詩人である塚田武四についてまとめておきたいと思います。彼については、小熊の研究家でもある佐藤喜一の「中家金太郎像 露悪と諧謔の詩人(旭川叢書第七巻)」と、北けんじの「じゃっく・ないふの閃き-鈴木政輝の詩精神」に詳しく触れられています。
2冊を参考にしながら紹介します。


 塚田は旭中出身(卒業年次、生年月日とも不明、鈴木(注・鈴木政輝のこと)とは同年代)で、『円筒帽』創刊時の同人であり、大正十五年から昭和3年にかけては旭川詩人仲間ではリーダー的存在であったらしい。(「じゃっく・ないふの閃き-鈴木政輝の詩精神」より)


続いて、武四が旭川を去る事になった経緯や、その後の足取りについてです。


 ダダイズムの詩人、塚田武四の父は市長派の市会議員で、禿頭太鼓腹、策謀家、その四男武四は十八歳の中学四年時学校を飛び出し芦別岳山麓の山部村で代用教員となり、三千枚の長編叙事詩をかきつづけ、夕方は芸者小桃と逢曳、女児を流産、村の指弾の的となる。実家に呼びもどされて禁足、だが一切の道徳、正義、真理、美、権威を否定してかえりみない武四は料亭湖月で二人芸者をあげ層雲峡に流連荒芒三日に及び、三百円のツケを従兄のA市の富豪大川家にSOSの電報をうちそのご大阪にのがれ姉婿の弟の家財を留守中にきれいさっぱり売り払って東京へ。(中略)
 そのごは北樺太の木材積取船の帳場にすみこんだり、少女歌劇の座付作者兼人夫、田舎廻りストリップまがいのレビュウ団にあぶな絵式の脚本をかいたかと思えば、遊郭の妓夫を一ヶ月つとめ最期の住み家を、郷里A市の文学団体の事務所に寝泊りを始めたのが四月頃か、不健康のため胸も悪疾化し、呼吸づかいもひどかった。(「中家金太郎像 露悪と諧謔の詩人」より)



という事で、武四の大阪行き(親戚の家?)は、実家からの追放という側面が強かったようです。そして病を抱えて旭川に戻ったのは、8年後の昭和11年春。文中の「文学団体の事務所」は、東京から戻った鈴木政輝が中心となり、この年1月に旭川で結成された北海道詩人協会の事務所の事です。おそらく市会議員として紹介されている武四の父親は放蕩息子の帰還を許さず、実家にいることはできなかったのでしょう。この後、武四は、詩人協会の事務所や近くの映画館の従業員部屋、旅館などを転々とし、翌年秋、市立療養所(今の私立病院)に入院するも、まもなく亡くなります。
詩人仲間だった中家金太郎は、武四をモデルにした小説の中で、こう書いています。

 洋吉(注・武四の事)はゴミ箱へ放り込まれたように焼かれ彼の遺構も、友人には何の相談もなく焼却された。(中略)
 軈て十二月下旬、私は仲間の忘年会に招かれて帰省した(注・中家は当時札幌在住)。忘年会は詩人協会の会旗入魂式と洋吉の追悼を併せ行った。(中略)追悼には亦、余湖清六(注・詩人仲間)の文になる弔辞を述べ生前洋吉の愛飲したるジンを乾杯したのである。弔辞も甚だ滑稽極まる一文であったが、ひしひしと洋吉を悼む気持になれたのである。兎も角、宴会の席上にふさわしくない奇妙な一刻であった。何れにせよ私は滂沱たる涙をふりまき、げらげらと笑いたい悲喜混淆の気持で一杯であった。
 しかしリーダー宗谷蕃(注・鈴木政輝の事)が、<兄順三(注・武四の兄、淳三の事)は北支に奮戦中に顔面に手榴弾をうけ半日にして戦死、順三の葬式は市長候補の叔父市会議員の父を擁し盛大なる弔葬で執り行われた。洋吉は余計者として死し、まだ貧弱な葬儀さえ行われない。余計者として葬り去り得ない擬直な詩人は、茲に生前洋吉の愛したジンを乾杯して彼を追悼しよう>と弔辞を述べた時、私は詩人の光栄に身うち熱くなり涙がまかれそうであった。(中家金太郎「死者生者」より)



遺稿は焼かれたとされる武四ですが、絶唱とされる詩が残されています。


「ふるさと」        塚田武四

ふるさとは馬追帽子に
垢じみたつづれをまといて帰るところ
無骨な靴の底は裂け
沓下ちぎれて素足に土をなつかしみ
飢渇(か)わけば草に聞いて
田園近き清水に遠き日を想へ
ふるさとは古き友に嘲(あざ)けり追われ
花と変りし幼馴染に恐れられ
子供らの礫の的となるところ

ふるさとは昔の家の
冷たく扉をとざせるところ
酔いつぶれて酔いつぶれて
盗人の酒場に酔いつぶれ
悪しき旅人の群れと唄いて
悪魔の娘子の肌に戯れよ

ああふるさとは帰りきて帰りきて
路傍の秋草に涙するごと
言葉失いて 唯にすぎ去るところ




画像24・円筒帽詩会での4詩人(昭和3年・全列左より小熊、塚田武四、1人置いて鈴木政輝、小池栄寿)


画像25・北海道詩人協会の詩人たち(昭和11年・前列左から3人目=鈴木政輝、同じく5人目=小池栄寿、後列左から5人目=中家金太郎)



<昭和3年5月〜6月>


 五月三十一日。三十八度を越えた暑さ。午後七時から小熊秀雄氏送別歌会酒井広治氏宅に催うさる。七時小熊氏を訪れ、小林昴氏を誘い八時酒井氏へ。会するもの十七名。宮本吉次、秋山辰巳氏らも参会。ビール一本にサラダ。「夜」「皿」「菜」の三題を小熊氏より提出。即詠する。榎本氏総てを朗詠し、更に座興の為、小熊氏に集りたる歌をも朗詠して散会。僕を小熊氏の代りに幹事たらしめむとの議あり。散会後。酒井、小熊、小林、榎本の四氏と共によしやに行きて焼鳥で飲む。関兵衛氏来る。午前二時帰宅。
 六月二日、小熊秀雄氏を七時半頃、夜学が終るとすぐ訪れる。丸本輝子氏来たり居れり。十時頃、家を出る。ジュエルで生ビール一本、チキンライス、野菜サラダを御馳走される。夏蜜柑五十銭とキャラメル五十銭を選別とする。揖尾、丸本、小林、昇の諸氏に見送られて夜半十二時十二分、旭川を発つ。前途に祝福あれ。
(註・夜十時、奥さんは戸じまりをし、焔さんを背負い裏口から出られた。暗い小路の奥で裏口に施錠されている奥さん。何となく心の中まで暗くなる様なさびしさを感じたものだった。)
 六月三日、日曜。午後局にゆき次の電報を打つ。鈴木、今野両君宛。
四ヒユフ三ヂハンウヘノツク ヲクマ。(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)



*小熊の出立・・・
さあ長々と「交友日記」に描かれたゴールデンエイジの旭川とそこに生きた若者たちの様子を見てきましたが、いよいよ小熊の旅立ちです。
先に述べましたように、父親の死から上京まで1か月ほどのバタバタとした様子が窺い知れます。
上京中の政輝、大力に電報を打っているのは、小熊一家が東京巣鴨の一軒家で彼らと同居する予定になっていたからです(ただ間もなく小熊は別の場所に間借りして、彼らとは別れます)。
上京後の小熊は、念願だった中央詩壇での地位を確立するものの、経済的な困窮を深めるとともに健康を損ない、昭和15年11月、39歳の若さで亡くなります。
つね子夫人も筆舌に尽くせない苦労を負いますが、栄寿が書き留めた退去時のエピソード、一家の行く末を予感させているようです。
なお「夏蜜柑五十銭とキャラメル五十銭を選別とする」とありますが、栄寿は小熊から上京の旅費を融通してほしいと頼まれ、貯金してあった30円を選別として渡しています(小熊はあくまで借金と考えていたとも書いています)。

最後に小熊が栄寿に贈った色紙をご紹介します。



画像26・小熊が栄寿に贈った色紙(昭和13年・旭川文学資料館蔵)


これは昭和13年、10年ぶりに旭川を訪れた小熊が、当時、栄寿が教員をしていた名寄市まで足を伸ばし、滞在した際に描き残したものです。
色紙には、晩酌をやりながら旧交を温める2人、そして栄寿の6歳の長女、そして自作の詩が記されています。
栄寿は旭川に戻る小熊を子供とともに見送りますが、それが生前の小熊を見る最後となったそうです。
ちなみに今年は小熊の没後80年の節目の年でもあります。


「自分の路、他人の路」より  小熊秀雄
        ――小池栄寿氏のために――

素晴らしい哉、
私は好むとほりの生活を
ここまで、やり通して来た、
そしてここに誰に遠慮なく怒り、泣き、歓喜し、
虚偽を憎むことが出来る。
片意地な奴等のために
階級的片意地をもつて答へてやれるし
潔白な友へは、
開つぴろげて魂を売り渡してやる、
潮のさし引きよりも
もつと移り変りの激しい
感情の使ひ跡をはつきりと私は知つた
人間へも、また猫へも、犬へも
花へも、樹木へも
あらゆる人間以外のものにも
彼等の希望を代弁してやらう。




画像27・小熊秀雄と小池栄寿







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