もっと知りたい!旭川

へー ほー なるほど!
写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

ブログ版「写真と古地図で見る旭川130年展」昭和編

2020-05-17 18:00:00 | 郷土史エピソード



前回から掲載しているブログ版の「写真と古地図で見る旭川130年展」。
旭川の開村130年に合わせ、その歴史を古地図や貴重な写真で振り返っています。
後半の今回は激動の昭和です(ただし50年代まで)。


                   **********



③昭和(戦前)・・・


昭和に入り、旭川は、市街電車の相次ぐ開通や、都市の大改造と言われた牛朱別川の切替工事、街のシンボルである旭橋の架け替え、ガスの供給開始など、大規模なインフラ整備が急速に進みました。
その一方で、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と、軍国主義のもと戦時体制が強化され、陸軍第七師団を擁する軍都旭川からは多く若者が戦地へと赴きました。



(パネル3−1・旭川市地図 昭和17年)




昭和17年の中心部の地図です。
牛朱別川の切替工事も昭和7年には完了していて、街並みは現在と変わらない状態になっています。
戦時色に覆われた時代で、小学校は国民学校と改称されています。
旭川市街軌道、旭川電気軌道の2社の電車の路線が示されているのが目を引きます。
旭川市街軌道は、昭和4年開業で、一条線、四条線、師団線の3路線を、旭川電気軌道は、昭和2年開業で、東川線と東旭川線の2路線を運行していました。


(パネル3−2・1条師団通 昭和2年)




中央の通りが師団通です。
左手前の建物は丸井今井百貨店の本館と新館、右手前は同じく丸井今井の金物部です。
師団通には歩道の縁石があり、舗装工事が済んでいることが分かります。
その通りを、自動車、馬車、大八車、自転車とさまざまな乗り物が行き交っています。
師団通の舗装は、大正14年8月に宮下〜2条間で始まり、翌年には2条以北でも整備が進められました。


(パネル3−3・4条からの展望 昭和2年)




旭ビルディング百貨店からの撮影です。
手前は4条師団通の交差点です。
大正14年に始まった師団通の舗装化で、こちらはまだ工事が行われているようです。
交差点に面した右手前の黒っぽい建物は、当時、人気店だったカフェーヤマニです。
画面右上に、牛朱別川沿いにあったポプラ並木が見えています。


(パネル3−4・中心部の空撮 昭和初期)




昭和初期の旭川中心部を写した貴重な航空写真です。
牛朱別川は切替工事直前で、常磐公園の南側を流れています。
その牛朱別川に、今のロータリーの場所で架かっているのが常盤橋です(画面右上)。
川の近くには、日章小学校や庁立旭川高等女学校(今のときわ市民ホールの位置)などがあります。
その下、5条通りには、真久寺、大休寺、慶誠寺の3つの寺が建ち並び、寺社通りと呼ばれた様子が伺えます(慶誠寺はその後豊岡に移転)。
画面右端の縦の道路は師団通です。
通り沿いに4階建てのビルが見えていますが、前回掲載のパネル2−12で紹介した旭ビルディング百貨店です。


(パネル3−5・4条師団通 昭和5年)




舗装やすずらん街灯の整備が終わり、近代化された4条師団通周辺です。
度々触れている右のカフェーヤマニも改装されてパネル3−2の写真から大きく変わっています。
ヤマニは明治44年に4条通8丁目に開店した食堂が前身で、大正末にカフェーに転身、2代目店主の速田弘の才覚で人気を集めました。
斬新な外見のこの改装は、北海道を代表する建築家として知られる田上義也の手によるものです。
弘も田上も本業の他に音楽家としても活動した人物で、交流がありました。


(パネル3−6・4条師団通 昭和5年)




「大正時代」のパネル2−8と同じアングルの写真です。
10年経っていますが、建物の配置はほぼ変わっておらず、旭川市街の発展もいわば安定期に入ってきたことを示しています。
ただ画面中央のカフェーヤマニや、その並びの北海ホテルなど、いくつかの建物は街の近代化に合わせ、外装をリニューアルしています。


(パネル3−7・牛朱別川切替工事 昭和6年)




これまで度々触れてきた牛朱別川の切替工事の現場写真です。
このように基本、人力で作業が行われたことが分かります(トロッコの運搬には馬を使ったようですが)。
この写真は、現在のJR宗谷線鉄橋付近から旭橋までの新流路の掘削の様子です。
切替工事の起工は昭和5年5月で、旧流路の埋め立てが終わったのが昭和7年10月、埋立地での道路や下水道の整備など、一切の付帯工事が終わったのは昭和15年で、都市の大改造と称されました。
この切替工事により、市内中心部の出水被害は大幅に少なくなりました。
ただこの写真に写っているかはわかりませんが、工事にはいわゆる「タコ」と呼ばれる劣悪な条件下で働かされた土木作業員も多数動員されていたそうです。
今の安全・安心な暮らしの陰には、そうした社会の底辺で苦しんだ人たちの存在があったことも忘れるわけにはいきません。


(パネル3−8・満州事変出征 昭和6年)




昭和6年9月、満州事変の発生を受け、旭川の陸軍第七師団にも部隊編成の命令が下りました。
師団通に詰めかけた市民の見送りを受け、部隊が現地に向かったのは26日のことです。
戦前、軍都旭川では、こうした光景が幾度となく繰り返されました。
写真は3〜4条の師団通で、中央やや左上にカフェーヤマニの看板が見えています。


(パネル3−9・中心部の空撮 昭和7年)




斜めに走る2つの大きな通りは、緑橋通(右)と師団通(師団通=左・現平和通)です。
左下に駅前のシンボルだった宮越屋と三浦屋の2つの旅館が、1条師団通の両脇に丸井今井の2つの店舗が見えます。
また中央やや上に4階建ての旧旭ビルディング百貨店のビルも確認できます。


(パネル3−10・慰霊音楽大行進 昭和19年)




旭川の初夏を彩る音楽大行進が始まったのは昭和4年です。
当時の北海タイムス旭川支社長だった竹内武夫と、楽器店店主、町井八郎が、戦没者を慰霊する護国神社の招魂祭に新たな趣向を加えようと発案したのがきっかけでした。
写真は、隊列が8条師団通を右に曲がり、ロータリー方向に進むところをとらえています。


②戦後〜昭和30年代・・・


敗戦のショックからの立ち直りが急務だった戦後の旭川。
ですが、戦前に築いていた経済の基盤が下支えして急速な発展を見せます。
昭和25(1950)年には、戦後初の北海道の一大イベント「北海道開発大博覧会」を、道との共催で常盤公園会場を中心に実施。
全道各地から50万人を超える来場者が集まりました。
終戦時に9万人弱だった人口も、昭和30年には20万人、36年には20万人を突破するなど、順調に成長を続けました。



(パネル4−1・旭川市街案内図 昭和28年)




(拡大その1)


(拡大その2)


昭和28年発行の広告入りの中心部の案内図です。
日章小学校の隣に旭川西高校、旭川東高校の隣に刑務所と裁判所があるなど、施設や建物の位置が今とは大きく違っています。
郵便局やNHK、上川支庁(現在の総合振興局)、男山酒造なども今とは違った場所にあります。
また中央小学校や日新小学校、大成小学校、常盤中学校など、統廃合された学校も、この頃は健在です。


(パネル4−2・平和マーケット 昭和23〜24年)




極端に食料や物資が不足した戦後、旭川でも他の都市と同様、複数の場所に闇市が出現しました。
このうち今の緑橋通は、終戦前の昭和19年、防災のために8丁目の8号から10号までの建物が強制疎開されていたため、その跡地に自然発生的にマーケットと称する闇市ができました。
これらの店は、当初は道路使用許可を得た露店でしたが、次第にバラック建てに移行。
これに対し市は強制退去の方針を打ち出し、反発する業者と対立して裁判に持ち込まれました。
その後、業者は共同で集合店舗となるビルを建設しましたが、この時建てられたのが現在も続く緑橋ビル1〜2号館です。


(パネル4−3・道博の正門 昭和25年)




昭和25年夏、旭川は戦後初の北海道の一大イベント、道博=北海道開発大博覧会に沸きました。
会場はメインの常磐公園など3会場。
道内外の物産など多彩な展示に加え、東京上野の移動動物園や岐阜長良川の鵜飼、京都島原の太夫道中など道外から呼んだイベントも人気を呼び、40日間の会期中の来場者数は50万人に上りました。
また体育館や天文台など、博覧会に合わせて多くの施設が整備され、のちの文化・スポーツの発展に寄与しました。
写真は会期中に選ばれたミス道博と常磐公園会場の正門です。


(パネル4−4・駅前平和通 昭和20年代)




戦後、旭川の駅前通りは師団通から平和通と改称され、新たなスタートを切ります。
画像は駅前広場から見た平和通の入り口です。
宮下8丁目にあった宮越屋旅館の場所は雑居ビルになり、派手な看板が掲げられています。
その手前、やや見づらいのですが、下が白、上が黒の大きな花瓶のような形のものが見えます(青白の車の向こう側)。
旭川市街軌道(昭和31年廃止)の電車のプラットフォームです。
平和通り入り口のアーチの下には、ボンネット型のバスが走っています。


(パネル4−5・ロータリー付近 昭和20年代後半)




見えているのは、左から体育館、商工会議所、道博=北海道開発第博覧会のシンボルタワーだった大平和塔です。
ロータリーを通っているのは旭川市街軌道の電車です。
商工会議所には、中にあった映画館とダンスホールの看板が掲げられています。
大平和塔は、道博の終了後も広告塔として活用されたもので、昭和31年からは塔上に設置されたスピーカーから、青少年に帰宅を促す「母の鐘」のメロディーが流されました。


(パネル4−6・1条平和通 昭和32年)




市民で賑わう1条平和通の様子です。
左の大きな建物は丸井今井デパートです。
「初大売出し」の看板や門松が見えますので、正月の撮影です。
雪が積もっていて、車道と歩道の境が見えなくなっています。
すずらん街灯の下には傷痍軍人と思われる人が立っていて、募金を集めています。
昭和40年代までは、こうした光景がよく見られました。


(パネル4−7・建設中の市役所と旧庁舎 昭和33年)




新旧の市役所庁舎が一枚におさまった貴重な写真です。
画面中央の旭川市役所旧庁舎は明治44年に竣工し(竣工当時は町役場)、以来47年間に渡って利用されました。
新庁舎はこの年10月に完成し、2年後、優れた建築物に対して贈られる日本建築学会賞を受賞しました。
旧庁舎の左奥には、今の市民文化会館の位置にあった中央小学校の校舎の一部が見えています。


(パネル4−8・市役所屋上から 昭和30年代)




昭和33年竣工の市役所庁舎屋上で撮影された写真です。
画面上に見える三角屋根の建物はパネル4−5でも紹介した体育館です。
その右に商工会議所、さらにその右に道博=北海道開発大博覧会のシンボルタワーとして建てられた大平和塔と旭橋が重なって見えています。
このうち体育館ですが、もともとは道博の際に、美幌町にあった旧海軍飛行場の格納庫の鉄骨を利用して建設された展示施設でした。
格納庫、展示館、そして体育館と、3度違った目的で使われた建物です。


(パネル4−9・市街地上空から 昭和34年)




4条通8〜9丁目付近上空から北東方向を撮影しています。
画面中央の大きな通りは緑橋通です。
4条通8丁目の高い建物はニュー北海ホテル、4条通9丁目の大きな建物は旭川郵便局、5条通8丁目のビルは旭川電話局です。
市役所の旧庁舎が、まだ取り壊させずに残っています。


(パネル4−10・常磐公園とその周辺 昭和35年)




昭和30年代の常磐公園とその周辺を撮影した貴重な航空写真です。
ロータリーにあった大平和塔は、市立病院裏に移設されて、その姿はありません(移設直後で痕跡が残っているように見えます)。
常磐公園に目を向けますと、体育館の脇に、33年に竣工した公会堂と図書館が見えます。
興味深いのは、千鳥ヶ池と自由広場です。
ともにスケートリンクが作られています。
常磐公園でのスケートについては、凍りついた千鳥が池で滑ったという思い出がある人と、自由広場に水を撒いて作ったリンクで遊んだという人がいるのですが、2か所同時ににリンクが作られたこともあったようです。


(パネル4−11・旭川民衆駅の完成 昭和35年)




旭川駅は平成22年に竣工した現在の駅舎が4代目です。
写真は昭和35年竣工の3代目駅舎の完成直後の姿です。
駅前広場ではまだ整備が続いているようです。
この駅、地元の企業体と共同で出資して建設されたいわゆる「民衆駅」で、地下に商業施設である「ステーションデパート」がありました。
「ステーションデパート」の奥には地下通路に通じる改札があり、ここからもホームへの行き来ができました。


(パネル4−12・旭橋付近 昭和36年)




旭川のシンボル、旭橋は、明治37年に誕生した初代の後を受け、昭和7年に現在の2代目旭橋が完成しました。
鉄製の橋としては、当時、東京以北では最大規模の橋でした。
その美しいアーチは今も市民の誇りとなっています。
写真は、旭川上流の河原で魚取りに興じる子供たちを捉えた一枚です。
当時、この辺りでは、ウグイやカジカ、ドジョウなどがとれ、メダカすくいも楽しめました。


(パネル4−13・ロータリー上空から 昭和39年)




ロータリー上空から駅方向にカメラを向けています。
中央や右の大きな通りが昭和通、その左が平和通です。
6条昭和通の大きな建物は、完成したばかりのNHK旭川放送局新会館です。
平和通の5条から先にはアーケードが設けられているのが見えます。
戦後開発が進んだとはいえ、まだ圧倒的に平屋〜2階建ての木造建築が多いことが分かります。


③昭和40年代以降・・・


昭和40年代の旭川を象徴する出来事といえば、やはり昭和47年の全国初の恒久歩行者天国「平和通買物公園」のオープンがあげられます。
このほか旭川空港の開業(41年)、国鉄函館線の複線・電化・一部高架化の完成(44年)など公共交通網の整備が一段と進んだのもこの時期でした。
その一方で、高度成長の終焉に伴う産業構造の変革の波にも洗われた時代でもありました。



(パネル5−1・冬まつり 昭和41年)




旭川冬まつりは、昭和35年に始まりました。
今は旭橋下の石狩川河畔を中心に行われていますが、以前は常磐公園がメイン会場でした。
この写真は、昭和41年の冬まつり会場で冬の国体の開会式が行われた時のものです。
後に巨大なヤカンがありますが、これは五十嵐広三市長らが参加していた美術家グループ「北海道アンデパンダン」が制作した雪像です。
「北海道アンデパンダン」では、このようなユニークな雪像を毎年制作していました。


(パネル5−2・旭山動物園の開園 昭和42年)




日本最北の動物園、旭山動物園が開園したのは昭和42年7月のことです。
開園1か月の来場者は、予想を大きく上回る15万人に上りました。
その後も施設の整備などで順調な運営を続けましたが、昭和の末頃からレジャーの多様化などで〝冬の時代〟に突入、平成6年には園内でのエキノコックス症の発生により、来場者は大幅に落ち込みました。
しかし平成9年から始まった独自の取り組み「行動展示」の実戦により人気が爆発、北海道を代表する観光スポットとなったのは周知のところです。


(パネル5−3・国劇ビルの内部 昭和42年)




映画が娯楽の太い柱だった時代、旭川にも街のあちこちに映画館がありました。
中心部だけでも、国劇=国民劇場、旭川東宝、スカラ座、旭映=旭川映画劇場、旭劇=旭川劇場、旭川日活などが、競うように客を集めていました。
写真は、昭和42年に撮影された国劇ビル(本間興業経営)の内部です。
ここは今のシネコンの走りのような場所で、5つの映画館や遊戯施設、レストラン、「国劇デパート」と称した小売施設などがありました。
このうち旭川国民劇場は、1700人を収容することができ、当時、東北・北海道では初めての回り舞台を完備した本格劇場でもありました。


(パネル5−4・アサヒビルデパート 昭和42年頃)




宮下通8丁目にあったアサヒビルデパートの売り場です。
所狭しと並べられた商品のガラスケースが時代を感じさせます。
ガラスケースの上にも様々な方法で商品が陳列されています。
このように、昭和40年代までの小売店は、大型、中小を問わず、過剰ともいえるほど大量の商品を陳列して売るのが一般的でした。
「物がある=豊か・幸福」という高度成長時代ならではの意識が前面に出ていたと言えるかもしれません。


(パネル5−5・お祭りの露店 昭和46年)




今も昔もお祭りの期間中に出る露店を楽しみにしている人は多いはずです。
今は常磐公園が中心の露店ですが、かつては昭和通や緑橋通などにも出ていました。


(パネル5−6・七条交番 昭和46年)




7条8丁目にあった七条交番は、愛らしい姿で市民に親しまれた存在でした。
旭川は1条、4条、7条の通りが、他の通りよりも広いのが特徴です。
7条も幅が広いため、交番裏のスペースは一時期、駐車場として活用されていました。
その交番も昭和47年の買物公園のオープンに合わせ、姿を消しました。
画面上に見えているのは、中央小学校のグラウンドです。


(パネル5−7・買物公園オープン 昭和47年)




旭川のメインストリート平和通は、昭和47年6月、大きく変貌しました。
全国初の恒久歩行者天国、買物公園の誕生です。
1日のオープン初日、当時の五十嵐浩三市長は「平和通は道路から公園にただ今生まれ変わりました」と宣言。
8条から宮下まで、ブロック毎に趣向を凝らしたセレモニーが行われました。
また1年後には、市役所前と常磐公園を結ぶ七条緑道もオープンし、街の新たな出発となりました。


(パネル5−8・手の噴水 昭和47年)




買物公園のオープン当初は5条通に設置されていた「手の噴水」。
平成10年から始まったリニューアルに伴い、現在は8条通に移されています。
買物公園や七条緑道には、彫刻の街と呼ばれる旭川らしく、様々な野外彫刻が置かれていますが、この作品も通りのシンボルとして親しまれています。
指の形など、デザインには、画家でもあった五十嵐広三市長が深く関わりました。


(パネル5−9・氷割り 昭和48年)




今のようにロードヒーティングなどなかった時代。
春が近くなると、硬く氷状になった道路の雪を割る光景が、平和通のあちこちで見られました。
割った雪(氷)をトラックに積むのは重機の役割ですが、雪割そのものはやはり人力による作業。
1シーズンに一体何度ツルハシを振るったものなのでしょう。
写真は5条通での作業の様子です。


(パネル5−10・とうきびワゴン 昭和50年代か)




ワゴン売りのとうきびと言えば、札幌の大通公園の名物ですが、旭川の平和通でもかつてはこのように販売されていました。
このほか、リニューアル前の買物公園には、子供が自由に落書きできる大きな本の形をしたオブジェや滑り台などさまざまな遊具や施設が各ブロックに置かれていました。
文字通り公園らしい空間が演出されていたのが、この時代の買物公園の特徴です。


(パネル5−11・七条緑道 昭和50年代)




長さ500メートル弱の七条緑道は、昭和48年、買物公園オープンの1年後に造成されました。
当初、市はここも歩行者専用の道路としたい意向でしたが、商店街との調整で結局、中央に歩道、両脇に車道を配した形となりました。
この通りのスタイル、鎌倉にある鶴岡八幡宮の参道をモデルにしたと伝えられていて、近年のリニューアルの際も変えられていません。


(パネル5−12・駅前買物公園 昭和52年)



昭和52年の駅前買物公園の姿です。
今はない金市館、長崎屋、丸井今井デパート、西武デパートなどの大型小売店が建ち並んでいて、時代の移り変わりを感じさせます。
のちに撤去されるアーケードも、この時期は健在です。


さてブログ版の「写真と古地図で見る旭川130年展」。
2回にわたって掲載しましたが、お楽しみいただけたでしょうか。
このブログでは、他にも旭川130年の歴史について知っていただく取り組みを進めていきたいと考えています。
引き続きよろしくお願いいたします。


<写真及び地図の所蔵先・出典> 

(所蔵先)
*旭川市中央図書館・・・3−1、3−6、4−1〜2、4−6〜12 、5−1〜7、5−9〜12
*旭川市博物館・・・3−3、3−10
*那須敦志(写真・絵葉書)・・・3−2、3−5、3−9、4−3〜5、5−8

(出典)
*3−7・・・・・・牛朱別川切替工事概要
*3−8・・・・・・旭川年鑑(昭和7年)







この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ブログ版「写真と古地図で見... | トップ | 齋藤史・瀏が書いた旭川 »
最新の画像もっと見る

郷土史エピソード」カテゴリの最新記事