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原武史 『地形の思想史』 その3

2020-06-30 17:12:41 | Weblog

解けた疑問、解けぬ謎。アンリ事件を官邸対検察の構図で見る。最初の一手は1月の広島地検の河井事務所ガサ入れ。検察が相当の覚悟を見せた。次は、官邸が稲田検事総長を退職させようとしたが失敗、それで黒川を定年延長。このまま8月に検事総長に据えかえればよかったのに、なぜあえて検察庁法案を提出したのか?結果的に法案は世論の力で廃案。誰が文春にリークしたのか?黒川は賭け麻雀で失職。この闘い、検察がどこまでやるか。

 

『地形の思想史』 その3(原武史著 角川書店 2019年刊) 

著者の旅は続いた。

第5景「湾」と伝統

訪れた場所は、神奈川県の三浦半島と千葉県の房総半島にはさまれた東京湾の沿岸

エピソードは、記紀には東日本を舞台とした神話が少ないのであるが、ヤマトタケルの東征、その同行者である妃の一人オトタチバナヒメの伝説、その痕跡が残る地名の場所、神社などを訪ねた。

戦後教育において神話を教えることは戦前の軍国主義に繋がるということで全面的に否定された。記紀は天皇制の揺籃期にその正統性を証明するために編まれたものだが、書かれていることが全てフィクションかというと僕は違うと考える。事実は事実としてあったはずである。さらに記紀には書かれていない民間伝承などを含めると、この国の始源の姿がはじめて浮かび上がってくる。この国の歴史には始まりがないのだ。「たらいの水と一緒に赤子を流してしまった」ことが悔やまれる。このような意味から著者の旅の方法に興味を覚えた。

本書は、夫たちを海難から救うために行ったオトタチバナヒメの入水の話について、現上皇后美智子が1998年の講演で、彼女は「一方的に犠牲になったのではなく、任務を分かち合い一緒になって難局を乗り越えようとしたのだ」と述べたことを紹介している。上皇后らしい象徴天皇制における天皇と皇后の関係についての思いが感じられる。

 

第6景「台」と軍隊 

訪れた場所は、相武台と呼ばれる神奈川の台地

エピソードは、1937年9月に昭和天皇が座間に移転した陸軍士官学校(本科)の所在地を「相武台」と名付けたこと。当時の小田原急行鉄道の駅名も「相武台前」となった。戦後は米軍に接収されキャンプ座間となり、現在は敷地内の一部に陸上自衛隊が駐屯している。

昭和天皇が命名した由来は、①『古事記』中巻のヤマトタケル東征に「相武台」の地名がある。②「武ヲ練リ鋭ヲ養フニ適ス」から「武ヲ相ル」という意味からきている。著者は、現在も残っている1942年5月に完成した「御真影泰安用防空施設」跡を訪ねた。これは、名称とは異なり、御真影のためではなく天皇本人の避難壕である。ちなみに、前年9月には宮城(皇居)内吹上御苑に「御文庫付属室」と呼ばれる防空壕も作られている。

 

第7景「半島」と政治

訪れた場所は、鹿児島県の大隅半島

エピソードは、大隅半島には1936年に鹿屋海軍航空隊が創設され、敗戦濃厚な1945年2月に第5航空艦隊司令部が置かれ、この地から908名の特攻隊員が出撃している。戦後は、米軍の駐留を経て海上自衛隊鹿屋航空基地となった。ちなみに対岸の薩摩半島には知覧陸軍基地が置かれこちらからも特攻隊員が出撃している。

鹿児島には「いぶすき菜の花マラソン」に参加するための一度しか行ったことはないが、2泊だったので特に県内の見学をしなかったが、今にして思えば見ておくべき所がたくさんあったのだと悔やまれる。靖国神社にもあったが、戦争で命を落とした若者たちが遺した文書や身に着けていた品々から、生きていたという紛れもない事実が伺えた。理由の良し悪しを問わず、国家が国民を戦争で死なせてはいけない。

最後に、本書には著者の近影が掲載されているが、著者がファンと称している松本清張氏によく似てきたのではないかと感じたのは僕だけであろうか。


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