見もの・読みもの日記

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明治人の食べたもの/歴史のかげに美食あり(黒岩比佐子)

2020-03-29 19:32:57 | 読んだもの(書籍)

〇黒岩比佐子『歴史のかげに美食あり:日本饗宴外交史』(講談社学術文庫) 講談社 2018.2

 幕末から明治末期までの半世紀、近代日本を左右した大事件を、接待や交渉、あるいは密談のテーブルに並んだ饗応のメニューから読み解く。取り上げられる人物は11人、ペリー提督、アーネスト・サトウ、明治天皇(2回)、井上馨、大倉喜八郎、ニコライ皇太子、伊藤博文、児玉源太郎、村井弦斎、西園寺公望、幸徳秋水。

 ペリーは、嘉永7年(1854)二度目の来日を果たし、日米和親条約を成立させた。この調印に先立って、幕府が横浜でペリー一行に供した献立が残っている。料亭「百川」の仕出し料理で、盛時の朝鮮通信使への饗応よりやや控えめだそうだ。結び昆布、車海老、紅竹輪蒲鉾など、ハレの場にふさわしい料理が並ぶが、正直、あまり食欲が湧かず、ペリーに同情を感じる。しかし、それから10年ちょっとの慶応2年(1866)将軍慶喜がイギリス公使パークスを謁見した際の饗応はフランス式で行われた。料理をつくったのはフランス人シェフだというが、変化の速さに驚く。まあ人間は、理屈以前に、旨いものにははすぐ慣れるんだと思う。

 明治初期はフランス式会食の普及が最大の課題だった。鹿鳴館にも食堂があって、本格的なフランス料理が提供された。帝国ホテルの食事も、もちろんフランス式だった。著者は、鹿鳴館を建てた外務卿の井上馨と、帝国ホテルの建設・経営にかかわった大倉喜八郎を比較的好意的に紹介している。鹿鳴館では上流夫人による慈善バザーが行われたり、夫婦で参加するパーティが開催されており、新しい社会風俗を生み出し、定着させた功績は看過できない。また大倉喜八郎の舌は確かで、ハルピンのホテルでスカウトしたパン職人イワン・サゴヤンの焼いたパンが、今日のメロンパンのルーツになっているという説もあるそうだ。

 伊藤博文については、日清講和会議の春帆楼が紹介されているが、清国使節団の一行は、鍋、釜、火鉢から多くの食材を運び込み、料理人も連れてきて、ずっと自炊で通したのだそうだ。ついに日清両国の会食の機会はなかったという。それから10年後、春帆楼で河豚チリ鍋を午餐に食し、船で大連に向かった伊藤はハルピン駅頭で暗殺される。日本での最後の午餐が春帆楼だったというのは知らなかった。伊藤公、悔いはないだろうなあ。

 児玉源太郎のことはよく知らなかったので、本書に描かれたエピソードは面白かった。日露戦争の祝勝会で視察に来ていた外国武官たちからシャンパンシャワーを浴びたというのが主題だが、個人的に、茅場町の屋台のおでんの味が気に入って、参謀本部に三百人前届けさせたという話が好きだ。

 明治の後半は、だんだん話題が暗くなるのだが、日露戦争で捕虜になったロシア人が収容所で食べていた食事の献立は充実したもので、食欲をそそられる。外国人ジャーナリストの目を意識した配慮でもあったようだが、噂に聞く今の入国管理センターのほうが非人道的なのではないかと思う。

 幸徳秋水は、明治43年(1910)6月、大逆事件において逮捕され、翌年1月に死刑になった。獄中で過ごした大晦日に蕎麦、元旦に餅がふるまわれたことを漢詩に残している。

 人によって美食の定義はさまざまだろう。本人は日々の食事の1回としか思っていなかったものに、後世の人間がいろいろ意味づけしたくなる場合もある。いずれにしても、食べ続けて生きるのが人間なのだなあと感じた。


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