岐阜/医大生が指導する明光義塾長良教室&芥見教室

医大生が個別指導する全国でも珍しい塾が明光義塾長良地区、芥見地区に登場。山県市、美濃市、関市からも通塾されています

★文学界新人賞

2019年10月06日 15時17分42秒 | 日記

 

★気ままに

 秋晴れの好天が続いていますが台風19号が三連休辺りに直撃しそうですが心配です。20日過ぎには高校生の修学旅行が控えています。

 今日は私立中学、高校の説明会を迎えて少し時間がありますので日記と言いますか学生時代を思い起こして書いていきたいと思います。
 学生時代受験に失敗した私は何とか家を脱出することが出来ましたが非常に複雑な気持ちでした。元々時代も違いますが私は勉強などする気は更々ありませんでした。受験に落ちた時にはもう少し受験校をばらけておけばよかった思いましたが後の祭りです。大学はW大とK大しか受験しませんでした。と言ってもW大は3学部受験しましたので結果的には4大学の受験申し込みをしました。しかし、K大は受験に行きませんでした。つまり自信があったと言えばそれまでですが落ちることは考えていませんでしたので一応W大しか受けませんでした。結果失敗になって浪人を先生からも薦められましたが家庭の事情でM大が3月24日に香川大学で受験が出来るということでそこに落ち着いたのですが当初は凹みました。合格が当たり前だと先生からも言われ実績もあり過去問題も10年分やって合格当たり前に考えていたのですが世の中そううまくはいかないようにできています。最初の挫折でした。安全と誰もが言っても安心と言うことはないです。

 現在大学受験の共通テストで英語の取り扱いがもめにもめています。少々早い気が致します。天下りの利権か生徒側かどちらの立場から話しているのか極端に分かります。出来るだけ受験生の立場になって欲しいと考えるのは私だけではないと思います。高校受験にしましても記述がかなり多く出てまいりました。各学校の中間・期末テストにすら記述問題がかなり出てきます。先日全国共通テストや高校受験の志望校判定模試をみてもかなり記述が増えています。
 私のときはそう言う時代ではなく共通一次と言うことでしたが私立大学全盛の時代でしたから今とは比較にはなりませんでした。景気もかなり良くて右肩上がりでしたので現在人気の公務員や医療関係は蚊帳の外で変わり者と言うイメージさえまりました。
 そう言う中で私は挫折を抱えたままで大学に行きましたが勉強する気はもともとありませんでしたから学校にはほとんど出席しませんでした。では大学で何をしに行きたかったのかと言いますとただただ小説家になりたかっただけなのです。ですから私の希望は東京だったのです。そう言う立場ですからK大は行っても大阪でしたので最初から迷いましたがスルーしていました。

 結果大学では文芸部に所属をしました。当時大学は木造で兵舎の後でした。木造?まさかと思いましたが事実でした。楽器が好きでしたので応援団の吹奏部に入りましたがとんでもないところだと寮長が副団長で止めてくれましたので即やめてしまいました。それで仕方なしに文芸部という看板が紙で貼られたトタン屋根の部室を覗きました。そこにはM君がいて誰もいないよ、まあ入れよって後の全学連中部圏の幹部とタッグを組むことになったのです。彼が部長で私が副部長、総勢60数人の大所帯でした。今は塩釜口の方に移転しましたが私が大学二年からそちらに行きました。

 友人には恵まれました。今でも彼をはじめ色々な先輩後輩との交流は続いています。私も機関紙に継続しましたが大学祭に行き部室に寄りましたがもう当時の機関誌はありませんでしたが『狼群』という雑誌は現在も残っていました。これは詩集を集めた作品集です。クリスチャンのMさんが名づけ親です。

 私は高校時代からあまり勉強もせず小説ばかり書いていましたので何時しか夜型になっていました。当時もう野球部は辞めていましたので帰って食事をして12時ごろ起きて朝まで勉強していました。と言えば格好がいいのですが勉強は原稿用紙か本を読んでいるかどちらかでした。離れで住んでいましたので悪友が2時、3時頃覗きに来るのです。つまらない話で盛り上がっていましたが朝がすぐに来て家の前は予讃線が走っていましたので家の前を通過しますと駅にダッシュして最後尾から列車に飛び乗るのです。私は隣町の伊予西条駅まで汽車通学していました。少し遅れるとその日はお休みで学校には行きませんでした。昼間は誰もいませんのでのんびり昼寝をしていました。そう言えば内申点は酷かった、評定はどうだったのでしょうか・・・。多分実力があればそこに引っかかったかもしれませんがそうは思えません。兎に角よく学校は遅刻しましたし休みました。よく親父も先生に呼び出しされなかったものです。私の知らない時に呼ばれたのかもしれませんが勉強しろとは一言も言わなかったですが「大学には行け」といわれたものです。

 そう言う中で学生時代部活の一学年下の彼女と仲良くなり一緒になることも考えましたが結局は別れることになり高松まで来てくれました。当時私は菊池寛賞に応募しかなりなところまでいっていましてそれどころではなく小説に没頭していました。彼女は数日高松にいましたが別れる結果の前提ですから気が重く最後は電話で別れました。電話の向こうで泣いている彼女の声は今でも心に突き刺さります。

 しかし、純文学から中間小説と決めつけられた私の作品はそこで終わってしまいました。それから数十年が経ちました。今や文学界も年2回の新人賞やその他応募が沢山あります。分類は純文学、エンタメ、ライト、推理、ホラーなど、そして純文学とエンタメの中間の中間小説が存在するのですが今や中間小説はライト小説などに押され気味で純文学はまたよく分からない世界なのですが兎に角存在しています。

 私は彼女と何処に行くにも一緒でした。大抵の中部圏の大学には顔を出しました。どうしてあの頃あのように自分中心のような考えをしていたのだろうかと思います。カミユではないが『太陽のせいだ!』そう叫んでみても何の意味もないのです。
 
 先日芥川賞を受賞した川上未映子の「すべて真夜中の恋人たち」を読みました。若さ溢れる良い作品でしたが朝井リョウのような若々しい作品は書けません。平野啓一郎も同じです。村上春樹や立松和平を読んでいる方が気が楽です。今、昔の本を本棚から出してきてカミユの全集や郷里の先輩大江健三郎の本を読んでいます。昔と今では時代が違うのですがいい作品は少しも色あせていない。やはり文学は素晴らしい。そう言う中で年甲斐もなく文学界新人賞に応募いたしました。多分一次通過もしないかと思いますが私は純文学を目指しそれが非常に面白い中間小説と評してくれたのですが結果的にそれが引き金になって筆を折ったのですから最後は純文学に挑戦して終えたいと考えこの度応募いたしました。夢はまだ途中です。

 中学受験、高校受験、大学受験の模試が激しくなってきます。この10月にほとんど終えてしまいますが兎に角自分の欠点を早く見つけることです。見つけれない方は先生や塾の先生と相談してみてください。一番身近な人に相談することが大事ですが中途半端な言葉や慰めの言葉は不要です。変に希望を持たすと却って傷つけてしまうことにもなりかねません。真面目に真剣に自分の立ち位置将来の道を考える時期でもあります。

<今日の言葉>
『吹いている風が全く同じでも、ある船は東に行き、ある船は西に行く。進路を決めるのは風ではない、帆の向きである。人生の航海でそのいく末を決めるのは、渚でもなければ、嵐でもない、心の持ち方である』
    エラ・ウィーラーー・ウィルコックス(英・女流作家)

<今週のYouTube>
JUJUの GOOGBYE DAY 私の着信音です。JUJUはいいね

JUJU - GOODBYE DAY

 

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<詳細>
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長良教室 058-210-1730
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