木村拓哉の“人間宣言”に大反響!同年代男性も共感の理由 | 女性自身
2019/1/3(木)
木村拓哉(46)が1月2日、「ニンゲン観察!モニタリング★超豪華芸能人大集合!新春3時間SP!!」(TBS系)に出演。ドッキリに仕掛けられた際のやりとりが大反響を呼んでいる。
ドッキリの仕掛け人は、映画「マスカレードホテル」での共演者である勝地涼(32)。勝地はある一室で木村と2人きりになると突然、「役者を辞めようか、今迷っていて……」と切り出した。
すると真剣な眼差しで「なんで? それパートナーには相談したの?」と勝地の妻・前田敦子(27)を気にかけた木村。勝地が「まだ言えてなくて……」と返すと、「そっち先じゃない?」と怒りをにじませつつコメントした。
「しんどくなってしまった」と弱音を吐く勝地に、そんなことは「しょっちゅうだよ」と明かした木村。さらに続けて「だってやることなすことね、いろいろ叩かれるから。自分だって言われるもん。何やったってキムタクだって」とスターだからこその悩みを明かしていた。
のちに、勝地が不自然な質問をし始めたことでドッキリだと発覚。しかしスターならではの苦悩を明かした木村に、Twitterでは共感の声が上がっている。
「何を演じてもキムタク」らしいが、
そんなことは当たり前ではないのか?
だって、木村拓哉さんは「スタア」でしょ?
「何を演じてもキムタク」が悪口になるらしい。
んなこと、言ったら、昭和の映画スタアなんか、ほぼ全滅ではないか(笑)。
「何を演じても勝新太郎」
「何を演じても高倉健」
「何を演じても三船敏郎」
「何を演じても石原裕次郎」
「何を演じても片岡千恵蔵」
「何を演じても市川右太衛門」
「何を演じても渥美清」
「何を演じても藤純子」
「何を演じても美空ひばり」
彼ら、彼女たちは、役者としてウンコだとでもいうのだろうか?
もちろん正直言えば、彼ら彼女らは「技術としての演技」が完璧だったとは言わない(笑)。
しかし、たかが「演技の上手い・下手」なんかでは、到底追い付けない、映画を映画として成立させる、客に木戸銭を出させるだけの「華」があったのだ。
つまり、 彼ら彼女らは「スタア」なのである。
上手い演技なんていう、映画の本質とは無関係の些末な雑事は、スタアを支えるワキの役者が頑張ればいいだけの話である。
上に挙げた昭和のスタアたちより、確かに演技は上手い。どんな役でもこなせる。
しかし、役所広司や渡辺謙は映画俳優であって、映画スタアではない。
「仁義なき戦い」はコメディ映画~ #藤純子 (富司純子) #高倉健 #菅原文太 VS #寺島しのぶ #岡田准一 #松坂桃李 #役所広司 - 在日琉球人の王政復古日記
平成の寺島しのぶ、岡田准一、小栗旬、役所広司、江口洋介、松坂桃李。
そりゃ、好み(偏見)は、圧倒的に前者の昭和である。比較にならない。
しかし、客観的に見て、役者の技量として、「平成」が「昭和」に大きく劣る、とは思っていない。
「平成」役者と「昭和」役者は、時代が異なると同時に、カテゴリーが異なるのである。
ぶっちゃけて言えば、
寺島しのぶ、岡田准一、小栗旬、役所広司、江口洋介、松坂桃李は、俳優・女優であるが、
岡田准一や小栗旬や松坂桃李よりも、高倉健や藤純子の方が、よっぽどアイドルだったのだ。
それは両者の「役の幅」を見れば判る。
世間の固定観念とは正反対に、寺島しのぶ、岡田准一、小栗旬、役所広司の方が役の幅が広い。映画によって(その演技が効果的かどうかは別にして)色んなキャラクターを演じ分けている。
しかし、藤純子、高倉健、菅原文太は、その圧倒的なネームバリューに誤魔化されているが(笑)、演じてきた役の幅は非常に狭いのだ。乱暴に言えば、どの映画のどの役も全部同じだ。
藤純子は後年「富司純子」になってから、意識的にだろうが、役の幅を広げてきたが、それでも全部「優しいおば様」でしかなく、東映・藤純子時代は、どの役もどの役も全部「藤純子」である。
菅原文太も、主役を張るまではストイックなやくざだったが、主役を張ってからは一貫して「トラック野郎」の一番星桃次郎テイストである。「仁義」の広能昌三も基本は桃次郎と同じだ。
高倉健が一番ひどくて(笑)、「人生劇場」の大当たり以降、どの映画の、どの役も、東映の任侠映画も、「八甲田山」も、松竹の「幸福の黄色いハンカチ」「遙かなる山の呼び声」も、「居酒屋兆治」「鉄道員(ぽっぽや)」も、全部「高倉健を演じた高倉健」でしかない(笑)。全部が全部「花田秀次郎」なのだ。
何をやっても全部「三船敏郎」にしか見えない(笑)、三船敏郎と同じである。
それは、藤純子、高倉健、菅原文太が、俳優・女優というより、「スタア=アイドル」である、ということなのだ。
演技の上手い下手を超えた、時代に愛されてしまった(ある意味幸運な、ある意味不幸な)宿命といってもいい。
血のつながった母娘なのに、藤純子と寺島しのぶはカテゴリーが異なる。
正直に書こう(笑)、母・藤純子は美人である。娘・寺島しのぶは不美人だ。
藤純子は美人だが、それでも当時の同時代の東宝、日活、松竹、大映の豪華絢爛な女優陣に比較して、絶世の美女というわけではない。どっちかといえばカワイイ、純情可憐な、つまり「アイドル顔」だったのだ。
母と娘、どっちの方が演技が上手いか?幅が広いか?といえば、おそらく娘の寺島しのぶの方だと思う。やはり父親の、歌舞伎役者の血が濃いのだろう。
しかし、母・藤純子が映画で魅せる「華」は、娘・寺島しのぶの優秀な技量でも太刀打ちできない。
それが多少の演技の上手い下手を超えた「スタア」という存在なのだ。
岡田准一は「自分が50代ぐらいになった時、こういう雰囲気の男を演じられるようになれたら」と言ったそうだが、後年の「駅 STATION」「居酒屋兆治」「夜叉」なんかを何回研究しようが、高倉健には絶対近づけない。
「居酒屋兆治」の高倉健は単なる「結果」「アウトプット」であって、「高倉健が高倉健になる生成過程」ではないからだ。
「居酒屋兆治」の高倉健は、東映時代の何十本もの任侠映画の積み重ねによる「高倉健イメージ」の蓄積の結果であって、「昭和残侠伝」がなければ、「居酒屋兆治」もない。
だから、「50代の高倉健」になりたいのなら、キャリア全盛期の「昭和残侠伝」「日本侠客伝」「網走番外地」を見まくって研究するしかない。そして自分も20代30代に任侠映画を撮りまくる、演じまくる、しかない。しかし、そんなことは、岡田准一がどんなに努力しても、平成の映画環境では不可能だろう。
そもそも「高倉健みたいな役者になる」ということは「何をやっても高倉健しかできない役者になる」ことでもある。それが、岡田准一にとって、役者にとって、幸運なのかどうかは、なんとも言えないのである。
たとえば、キムタクのモノマネはできる。キムタクのパロディもできる。
お笑い芸人がやれば、爆笑である。
なぜなら、彼らの演技は「型」が決まっているからだ。決まっているから真似ができる。
確かに、型が決まっていることは、演技の幅が狭いことを意味する。俳優としては問題だろう(笑)。
しかし、スタアというのは、配役を越えて、自分の型=個性が前面に出てしまうくらいオーラがある。それがスタアなのだ。
しかし、役所広司や渡辺謙のモノマネはできるだろうか? パロディはできるだろうか?
彼らは、完璧に、配役になり切ることができる。演技の幅が広い。出る映画、出る映画によって、演技が異なる。
つまり、モノマネやパロディが難しい。無理してモノマネやパロディをやっても面白くないのだ。
俳優としては完璧なのだ。職人なのだ。しかし、だからこそ、スタアではない。
「何を演じてもキムタク」・・・スタアとして、これ以上の誉め言葉はない。