みのおの森の小さな物語     

明治の森・箕面国定公園の散策日記から創作した、森と人と自然に関わる短編創作物語集 頑爺<肇&K>

生きがいに生きる(2)

2020-11-01 | 第9話(生きがいに生きる)

箕面の森の小さな物語

<生きがいに生きる>(2)

  哲也は3日間 何冊もある学生時代からの「夢ノート」をめくりながら想いを巡らせていた。 若い頃は冒険、探検の旅、アウトドアなどアクティブな計画が多かったが、歳と共にそれは変化し、近年はリタイアしたら「チベット仏教を国教とする<幸せの国 ブータン王国>を歩き、日本仏教 空海・真言密教の聖地、<四国八十八ヶ所霊場>を歩き、その比較研究」をしてみたいとか。

 また高校生の時<尊敬する人 発表会>で1位になったことがある「賀川豊彦 その人の歩んだ神戸の貧民窟での救済活動、その後の ノーベル平和賞候補や「死線を越えて」の本でノーベル文学賞候補にもなったその稀有な日本人牧師の足跡を辿りつつ、箕面の森に隣接する能勢・高山を生誕地とするキリシタン大名・高山右近の足跡を辿りつつ、その愛と真理の比較研究」をしてみたい・・ と言ったような可笑しなことを考えたりしていたが、その歴史散歩に似た計画にもそれなりに相当の資料を集めたりもしていた。

 そしてリタイア前には、豪華客船で二人して世界一周もいいな・・ ゆっくりと日本の温泉地巡りもいいな・・ とか話し合っていたし、かねてより憧れていた空を飛ぶスカイダイビングなどもあった。 いろいろ若い頃のやりのこし症候群から現実的な計画までそれは多岐にわたっていた。

 「・・でも これは体力的にムリだ・・ 時間が無い・・」 次々とバッテンをつけながら哲也は現実的にできそうな事を探っていた。

  その頃 紀子は友人に紹介してもらったホスピスの医師に夫のことを相談していた。 一通り話しを聞き、紀子の意見も聴いたその医師は、次のように話し始めた。

 「生きる目標や生きがいを持ったガン患者の80%が末期でも5年以上生存しています。 これに対し、絶望感を持った患者は20%しか生存していません。 人間の体内でガン細胞と闘うのはリンパ球ですが、そのリンパ球の働きをコントロールしている間脳と呼ばれるその中枢の働きを活性化させるのがファイティングスピリット つまり闘争心、生きがい、ユーモアなどといったプラスの心理状態なのです。

 生きる目的を持って病と闘う、つまりチャレンジ精神こそ闘病の特効薬と言えるのです。 だから生きている間にぜびご主人がしたいことを実行するチャンスを与えてあげて下さい。 「生きがい」を持つ事は大脳生理学的なガンの治療法の一つとして証明されています。 つまり「精神神経免疫学治療法」として確立されていて生きがいを持った患者さんの生存率が優れていると言う事実が注目されているのです。 いくら放射線や化学療法でガンを破壊しても、免疫力が低下していればそれを免れ残ったガン細胞が再び大きくなり、何度も苦しい辛い化学療法を繰り返す事になります。 だから免疫力が高いことが大変重要なのです」と。

 紀子は数日前 夫に何かやりたいことを何でもやっていいわよ・・ と伝えたことに医師は大いに賛同し、自分が決心した事に安堵した。 そして これからケアする紀子を励ますように医師は言葉を続けた。

 「死の恐怖は人間の本能だからいくら努力してもそれを無くすことはできません。 死の恐怖を振り払おうと努力すればするほどそのことに心が集中し強まるばかりです。 だから死の恐怖はそのままにしておいて、それよりも人生を有意義に過ごそうと生きる欲望の方へ心を向け、それに懸命に取り組む。  恐怖心をそのままにして現実の生き方を変えるようにしていけば死の恐怖と共存できるようになるのです。 逃げてはダメ  怖いのは人間の本能だから否定できない  当たり前のことで仕方ないと死の不安や恐怖を認めることが大切です。 

 大切な事は、それを認めつつ現実の取り組み、つまり奥様ならご主人が生きている間にしたいこと、今日しなければならない事に一生懸命に取り組み、その行動によって不安をコントロールしていき、心と行動を分けて考え、不安と共存するのです。 怖ければビクビク、ハラハラすればいいのです。 人間の本能だからそれは当たり前で自分の意思で変えられるものでなく、絶対になくなりません。 それよりそれを無くそうと無駄な努力をやめる事・・ ありのままでいいのです。 今日必要な事を一つ一つしっかりやる すると人間の心というのは同時に二つのことを同じ強さで考えることはできないので和らぐのです。

「病気になっても病人にならない」ことが大切です。 「苦しい時ほど行動を!」ですよ。 それにガンは安静にしたから治るというものではありません。 特に大脳の働きが自律神経の中枢を通じて体の免疫系に作用して効果を挙げるので、常に心の構え方、プラスの心がガンの抵抗力を大幅に高めるのです。 人間の感情というのは心の自然現象で、それには自分の意思が通じません。 だからいくらコントロールしようとしてもムダです。 しかし 感情は環境の変化と行動に伴って変化できるのです。 家でウツウツしていた人が山歩きなどに出かけると感情が変化する  つまり行動には意思の自由があります。  だから懸命に打ち込むような毎日が続けば免疫中枢の活発化につながり、当人はもとよりケアする奥様も楽になります・・」と。

 

  紀子は医師の話し一つ一つに乾いたスポンジが一気に水を吸い込むように吸収し心に響いていった。  そして今やっている自分のヨガの教室も今まで通り運営していくことにした。

  四日目の朝、哲也が 「やりたいこと・・」と口に出したのが紀子には予想外の事柄だった。 

「最後に・・ 箕面の森の中に小さな山小屋を建てて住んでみたい・・ それと 体力がある内に東海自然歩道を歩いてみたい・・」と。

  今までなら勿論一笑にふし「何を子供みたいなバカなことを言ってうんですか 何を考えてんの?」と怒るような内容だけど、じっと堪えると共に哲也の話しを聴いてみることにした。 「なぜ 最後となるかもしれない望みが山の中なの?」 紀子はいぶかしげに思いながらも哲也が真剣な眼差しなのでもしそれが本気で生きがいにつながり、一日でも元気に生きてくれるのであれば・・ と前向きにとらえるようにした。

  それから哲也は紀子と何日も話しあい、検査漬けでチューブに繋がれたスパゲティー体となり、薬の後遺症に苦しんで亡くなりたくない・・ と、当初の医師が勧めた放射線治療や化学療法といった治療方針を一切やめにして自然体でガンに望むこととした。 そうと決まるとあれだけ生きる屍化していた哲也がベットから起き上がった。 

 そして周りの人には自分の症状は伏せ、自力で歩けるうちにと外へ出かけるようになった。 「近くに来たので・・」と用事にかこつけ親しい友人やお世話になった人たち・・ 少し遠い所の大切な人々とも会い、自分なりに最後の別れをしてきた。

 紀子は哲也の最後の望みを遠くに暮らす子供たち家族に話し、各々が共有することにした。 そして毎日のように電話で相談できたので心強かった。 そして紀子は山小屋より先に歩けるうちにと哲也が望んだ<東海自然歩道>とやらを歩きたいという望みをかなえるために情報を集めた。 しかし これが調べるほどにとんでもない事だと分かってきた。

 「明治百年」を記念して昭和42年に指定され誕生した「箕面国定公園」と、東京・八王子の「高尾国定公園」とを結ぶ一都二府八県を結ぶ全長1.697kmの山岳歩道なのだからビックリした。 「まさかここを・・? 大変な事を言い出したものだわね・・」 哲也は・・「いろんな夢があったけど、これならゆっくりマイペースで休み休みしながらでも歩けるかな? と思ってね」 と事もなげに言うのだった。 でも最後の望みとあらば・・ と家族は渋々納得したものの心配は尽きなかった。

  スタートは東京の高尾山の基点地から、箕面のビジターセンターにある基点地へ向けて歩くようにした。 紀子も子供たち家族も「どうせ2~3日歩いたら自分の体力の限界を知ってすぐに諦めるわよ・・」と信じていた。  しかし 山の中のコースなのでいざという時の為に山岳用GPSやスマホ、ミニPCなど最新の近代機器を持たせ、緊急時のサポート対応もセキュリティー会社と契約し、常に位置を把握し連絡を欠かさないようにした。 更に 近くの山里の病院や救急対応も調べた。 紀子は哲也と共にこの準備に忙殺され、少し前のあの恐怖や不安から逃れられた。

  5月の始め・・ 事情を知っている子供たち一家も各々東京まで足を延ばし、八王子の高尾山頂に集合した。 哲也はみんなに見送られながら、ゆっくりゆっくりとスタートした。いよいよ哲也の念願だった<東海自然歩道>の歩き旅が始まった。

  紀子は不思議な事に夫と二人でいるときは今まで余り会話もしなかったのに、哲也が旅に出て別々に過ごすようになると、毎日よくここまで話すことがあるかと思うぐらいケータイやメールで話し合った。 哲也も山を歩きながら、夜テントの中から、朝のおはよう! から 夜のおやすみ! まで何度となく連絡をとった。 そして 2日に一回毎 更新される哲也の山ブログは、遠くで心配する子供たち一家にもそれぞれ安心感を与え、家族それぞれが見守る事ができて当初の不安を拭い去っていった。

 更に 紀子はアクセスのよい所まで新幹線や在来線を乗り継ぎ、山里に下りてくる哲也と出会い、時には一緒に歩いたり、里の宿をとることもあったが、何度かは哲也の野宿するテントで一緒に夜空を見上げ、満天の星を眺めながら朝までいろんな話しをしたりもした。 二人にとってこんなに夢中で話し、笑い、楽しい一時をすごしたのはあの若き恋人時代の時以来だった。

  哲也はそうして静岡、愛知から岐阜、京都を経て大阪府内に入ったのは出発して100日を過ぎていた。 やがて歩きなれた茨木の泉原から箕面・勝尾寺裏山の<開成皇子の墓>に着いた。

 実はいろんなアクシデントがあり、病院に救急搬送されたこともあったが大事には至らなかったこともあり、何とか無事に箕面の山までたどり着くことができた。 哲也はとうとう1.700kmほどの東海自然歩道を、予想以上の時間もかかったものの、118日をかけて歩破した。 

 終点の箕面ビジターセンター前にはあの高尾山で見送ってくれた家族全員が再び集まり、近くの「箕面山荘 風の杜」でささやかなお祝いが開かれた。 日焼けした精悍な顔と活気溢れた体をみて全員の安堵感は計り知れないものがあった。 そして哲也の達成感、満足感はいっぱいで幸せだった。 哲也は一人一人に心から感謝した。

  しかし 現実にはあの余命宣告からすれば、哲也の命は後 50日に迫っていた。

 NO-3 へ続く



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