名古屋城の紹介1 歴史今と昔 | みどりの木のブログ

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今日から名古屋城の紹介をします。

2018年8月6日に訪問しました。

気温40度という酷暑の中、城の

惣構まで見て歩きました。天守の

中には入れませんが、江戸時代

から残る、3つの3階櫓が内部を

公開していました。

その3つの重要文化財の櫓は

 

下図③から撮影した西南隅櫓です。

奥に大天守が見えます。

 

戦前の空襲で焼ける前の木造大天守と西南隅櫓です。

石垣の上には多門櫓があったようですね。

 

下地図⑬から撮影した東南隅櫓です。

内堀は高い所にあり、建造当初より空

堀です。

 

下地図⑤から撮影の西北隅櫓です。

この櫓は清須城のものを移したと言われます。

別名が清須櫓です。

 

現在地という所にある案内図です。説明用に番号をうちました。(上が北)

 

現在は天守建て替えのため入場出来ませんが、

今の鉄筋コンクリート天守は耐震性と老朽化が

問題で、新しく木造天守に建て替えるそうです。

資金は1/3が寄付・1/3が国・1/3が名古屋市

の出資で建設されます。4年後に完成予定です。

旧天守は1945年の第2次世界大戦の空襲で

焼け落ちています。旧天守は江戸時代のもの

で、旧国宝第1号でした。

 

現地資料から焼失前の、江戸時代からの木造名古屋城です。

手前が小天守で後ろが大天守です。どちらも1945年の

空襲で焼け落ちました。

 

現在の名古屋城です。 (下図⑪から撮影しました)

中には入れませんが外からは撮影出来ました。

現在の天守は鉄筋コンクリートで戦後建設され

ています。内部構造が違うのと、現在の天守は

外部の窓が大きくされています。最上階の5階

を見ればわかります。

 

現在地と書いた所にあった地図です。(上が北)

 

立地

名古屋城の城地は、濃尾平野に注ぐ庄内川が形作った名古屋台地の西北端

です。台地は濃尾平野に向かって突き出しており、平野の北を一望に監視でき

る軍事的に要害の地でした。
築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、崖下は低湿地です。防御に

ふさわしいものでした。

名古屋の高低差地図です。(国土地理院より引用)

白枠内を拡大すると

 

名古屋城部分を拡大した高低差地図です。(国土地理院より引用)

 

江戸時代末期の名古屋古地図です。(NetWork2010様より引用)

熱田神宮は古くからの門前港町ですが、堀川を利用しての水運で石

などを運びました。名古屋城から熱田台地に沿って、南の熱田神宮

まで町が造られています。

 

江戸時代末期の名古屋城古絵図です。

 

グーグルから引用の現在の名古屋城です。

 

名古屋城の歴史 (ウイッキペディアより引用)

戦国時代

16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた柳ノ丸が

名古屋城の起源とされます。この城はのちの名古屋城二之丸一帯

⑯辺りにあったと考えられています。1532年(天文元年に、信長

の父織田信秀が今川氏豊から奪取し、那古野城と改名しました。

 

名古屋城二の丸です。(上図⑯あたり)

この辺りに織田信長の生まれた、那古野城がありました。

江戸時代は藩主御殿と庭園になりました。

 

信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生

まれたといわれています。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城

は信長の居城となりますが、1555年(弘治元年)、信長が清須城

に本拠を移し廃城になります。

 

江戸時代

清須城は尾張の中心でしたが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、

水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康は1609年に、

九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことにします。

1610年に西国諸大名の負担による天下普請で築城が開始され

ました。
普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行に大久保長

安・小堀政一ら9名が任ぜられます。縄張は普請奉行の一人で

ある牧長勝。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も

高度な技術を要した、天守台石垣は加藤清正が築きました。

 

下図⑦から撮影の大天守石垣です。

解体工事に向けて足場が組まれています。

 

 

作事奉行は小堀政一で、大工頭は中井正清です。1612年ま

でに大天守が完成しました。名古屋城築城普請助役としては、

加藤清正以外に、寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、

黒田長政、木下延俊、福島正則、池田輝政、鍋島勝茂、毛利

秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、

稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光の外様大名が石

に刻印を打って石垣工事を負担し、延べ558万人の工事役夫

で1年余で石垣を完成します。

 

1697年の出来た当時に近い名古屋城です。(川地氏製作を引用)(上が北)


清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612

年頃から、徳川義直が名古屋城に移った1616年の間に行わ

れたそうです。この移住は清須越しと称され、家臣、町人はもと

より、社寺3社110ヶ寺、清須城小天守も移る徹底的なもので

した。
1634年に、徳川家光が上洛の途中で本丸御殿に立ち寄りま

す。

木造であった頃の本丸御殿古写真です。屋根は瓦葺です。

 

現在の再建された本丸御殿です。屋根は檜皮葺です。

⑪から撮影しています。


1865年に、14代将軍徳川家茂が上洛の途中で本丸御殿に

宿泊します。宿泊は1泊のみで入城の翌日には名古屋城を出

発しました。

 

明治・大正・昭和時代
明治維新後の1870年に、徳川慶勝は新政府に対して、名古

屋城の破却と金鯱の献上を申し出ます。金鯱は鋳潰して武士

の帰農手当や城地の整備費用に充当する予定でした。しかし、

ドイツの公使マックス・フォン・ブラントと大日本帝国陸軍第四

局長代理の中村重遠工兵大佐の訴えにより、1879年(明治

12年)12月に、山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存

を決定。この時、天守は本丸御殿とともに保存されました。

太平洋戦争時は空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、

障壁画を乃木倉庫に疎開させるなどしていましたが、1945年

5月14日の名古屋空襲で、本丸御殿、大天守、小天守、東北

隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失します。

 

下図⑥にある現在の乃木倉庫です。

明治時代に出来た当初はレンガ造りでしたが、

後に漆喰で白くされました。1945年に御殿が

焼ける前に、障壁画などをここに隠しました。

 

現地案内図です。


天守は地元商店街の尽力や全国から寄付をうけて1959年に

鉄筋コンクリートで再建されました。

 

平成時代

2006年に日本100名城(44番)に選定されました。同時に

本丸御殿復元工事に着手します。

2018年(平成30年) 6月8日 に 復元された本丸御殿の一

般公開が開始されました。

 

⑨から撮影の本丸御殿です。屋根は檜皮葺で燃えやすく、

江戸初期に出来た本丸御殿は直ぐに瓦ぶき

にされています。現在の新築御殿の屋根は

檜皮葺ですが難燃加工されています。


 2022年12月 に木造天守の復元が完成する予定です。

 

今日はここまでで、明日は正門前①から見ていきます。

 

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