田中城 1 歴史 | みどりの木のブログ

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今回から田中城の紹介です。

 

田中藩藩主下屋敷跡の正門と本丸より移築

保存の二階櫓です。

 

グーグルより田中城の位置です。

駿府城の南西方向にあります。

 

歴史

 

この城は室町時代の一色信茂の地頭屋敷が

起源で、屋敷は方一町(約109m四方)の大

きさでした。本丸の方形部分がその屋敷跡と

考えられます。

 

二階櫓内に展示の田中城ジオラマです。(上が北)

同心円状の濠ですが、一番内側の本丸が

方形です。

 

田中城(徳一色城)は1537年に駿河今川氏

によって築かれました。当初は徳(戸久)一色

城と言われました。初代の城主は由井美作守

正信で18000石でした。由井が桶狭間の戦

いで戦死したので、長谷川次郎右衛門正長が

城主となり、一族21人300人で守りました。こ

の時に三重目の堀が造られました。

 

三重目の堀と土塁跡です。背後に中学

校の校舎が見えます。下図①の所です。

 

 

1570年の武田氏の駿河侵攻で落城します。

武田家臣の馬場信房により三日月堀が新設

されます。三河の徳川氏に対抗する駿河西

部の城砦網の要として重要視されます。武田

家臣の山県昌景が在番で200人で守ります。

本能寺の変の年に、武田家滅亡後も落城し

なかった田中城は、1582年に徳川勢に攻

められていたのですが、武田家が滅亡した

ので開城します。

 

武田氏時代の田中城です。

 

三日月堀跡です。

 

1590年の徳川家関東移封後は駿府城主

中村一氏の管轄となります。

関ヶ原合戦の後、1601年に酒井忠利が

1万石で田中藩主となり四重の堀を造り、

藤枝宿を城下町として取り込みます。東海

道と城の間を松並木の道で繋ぎました。

 

江戸時代の田中城です。(現地案内板より)

下屋敷の位置をピンク色で囲みました。

 

酒井忠利は1609年に川越に転出し、以

後は駿府にいた徳川家康によって支配さ

れます。徳川家康は鷹狩で33回も田中

城に来城ています。1616年1月に徳川

家康は田中城に立ち寄り、上方で人気の

鯛をゴマ油で揚げて、にんにくをすりかけ

た料理を、茶屋四郎次郎に供されて、たく

さん食べましたが、その夜腹痛になります。

薬を飲んで元気になり、駿府城に帰りまし

たが、これが最後の鷹狩でした。この後

家康は腹中に塊あり痛む症状があり、自

ら造った薬を飲んでいましたが、1616年

4月75歳で亡くなりました。胃がんとされ

ています。

 

1633年以後、松平氏、水野氏等が封じ

られた後、1730年に本多正矩が4万石

で封じられ、以降明治維新まで続きます。
1868年に最後の田中藩主本多正訥が

安房長尾藩に移封されます。駿河国に

転封となった徳川本家(静岡藩)の支配

地となり、高橋泥舟が城を預かります。

のち明治4年に廃城となりました。

武家屋敷の土地などは民間に払い下げ

られました。

 

昭和30年頃の写真です。(現地展示写真より)

まだ堀が残っています。本丸には中学校があ

ります。

 

現在の田中城です。(グーグルより)

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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