鹿児島城(日本100名城) 5 北御門橋から私学校跡まで | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回は北御門橋から私学校跡までです。

 

下図⑨の北御門橋です。

 

上図⑨から⑩の方に歩きます。

 

⑨から⑩方向です。

堀に水はほとんどなくて、ハスが

繁殖しています。

 

 

左にカメラを回すと、道路の

向かい側は

 

石垣が見えますが、西郷隆盛の

私学校跡です。

現在の塀の内部は鹿児島医療

センター(国立病院)です。

 

幕末の絵図です。

私学校のあった所は江戸時代は厩や

馬場でした。

鹿児島藩は外城制なので、それぞれ

の町に領主のいる構造でした。

火縄銃で有名な種子島領主という屋

敷もあります。なので、早くから鉄砲

を使う戦術が発達して、戦国時代の

島津が強かった原因の一つになって

います。

 

上図⑩のところでは

 

 

 

石垣の下半分くらいが築城当時の

石垣で、上半分は後世に積み直し

たものです。大きめの鏡石があり

ます。

角は鬼門除けの隅欠け石垣です

 

下図⑩のところです。

角は鬼門除けの隅欠け石垣です

 

 

10月ですが蓮の花が咲いていました。

 

左が本丸で、右が私学校の石垣です。

右の方に行くと私学校門があります。

右側門と壁は1955年(昭和30年)

の国道10号線拡張時に13m城山寄

りに原形のまま移設されています。

 

 

 

私学校の門は

 

私学校の門です。

 

私学校の塀に残る西南戦争時の

銃弾痕です。

1874年(明治7年)6月に、下野した

西郷隆盛は不平士族の暴発を防ぐ

ために、城下の士族を入学させます。

開校場所は本丸向かい側の厩・馬場

だった所です。

陸軍士官養成のための「幼年学校」

「銃隊学校」「砲隊学校」の三校を設

立します。幼年学校は明治維新に

功績を挙げたものに与えられた、

賞典禄によって設立されたことか

ら、「賞典学校」とも呼ばれます。

西郷隆盛が二千石、鹿児島県令

大山綱良が八百石、桐野利秋が

二百石を拠出し、また参議大久保

利通も千八百石を拠出しました。

残る二校の費用は「私学校」と

いう名前ですが、県の予算より

支出されました。また鹿児島県

内各地に分校が設置されます。

3年後の1877年(明治10年)

同校生徒が鹿児島鎮台の弾薬

庫襲撃を行い、これがきっかけ

となり西南戦争が起こりました。

同校は西南戦争後廃止されま

した。西郷隆盛は下野してから、

隠居生活をしたらよかったので

すが、残念な結果になりました。

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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