貝塚寺内町  10 寺内南側堀跡と加名家・吉村家 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回は寺内南側堀跡と名加家・吉村家です。

最初に寺内の南側堀跡の清水川です。

 

下図紀州口と清水川です。

写真の右下が貝塚寺内町側です。

 

周囲を岸和田藩に囲まれていた

ために、紀州口には岸和田藩の

関所が設けられていました。

初期には岸和田藩の村から寺内

に移住する人が多かったためで

しょう。農民が村から逃散するこ

とを防いだのでしょう。

 

貝塚市文化財マップです。

寺内町の南側半分です。

 

江戸時代初期の貝塚寺内町です。

紀州街道の左側の方が紀州口です。

 

ここも大阪湾に近い清水川です。

 

次に名加家です。

 

上図⑫の加名家です。手前が主屋です。

名加家は文化15年(1818年)以前から

貝塚寺内に居住し、大正年間頃まで貝塚

の名産であるつげ櫛の卸問屋業を営ん

でいました。当家の住宅は主屋(北部分)

と隠居屋(南部分)の2棟の建物を合わせ

たもので、ともに国の有形文化財に登録

されています。主屋は18世紀中期から

後期頃の建築、隠居屋は明治4年~5年

頃に願泉寺卜半(ぼくはん)家の家来屋

敷を曳家(ひきや)して移築されたといわ

れ、正面の駒寄(こまよ)せやツシ2階の

虫籠窓(むしこまど)の形状が異なります。
 

反対側から見たところです。

手前が曳家して移築された部分です。

去年の台風被害が屋根にあったよう

です。

 

次に吉村家に行きました。

 

途中にある道の路面です。

「貝塚寺内町めぐりみち」とあります。

 

左端の塀まで吉村家です。

 

反対側から見たところです。

 

吉村家は江戸時代中期から貝塚寺内

に居住し、屋号を和泉屋・泉久といい、

代々「久」の字を使った名前を名乗って

いました。江戸時代には油屋・両替商

(金融業)を営んでいました。当家に残

る「文政三年諸用記」によると、町年寄

の格式を持ち、西之町の中老役をつと

めていたことが明らかとなっています。
当家住宅は紀州街道から西に1本入

った筋にある交差点の北東に位置し

ています。主屋は西面し、右手に付

属屋があり、その奥の座敷へと続き

ます。奥座敷両横に土蔵が隣接し、

北側土蔵の前には2間四方の中庭

が配置されています。主屋は内外と

も改造が多いですが、桁行5間半、

梁間5間の建物で、18世紀中頃

の建築と思われます。

 

吉村家の玄関です。

表札には元吉村家とあり、現在は

別の方の所有でしょうか。

 

吉村家です。

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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