夢のような世界
『100人証言集』で、松田正己さんは、小学校時代(昭和30年頃以前)の汐見町を次のように書いておられます。
・・・・「私は物心ついてから小学校5年生の時まで汐見町(荒井浜沿いの一地区)で育ちました。
それは、今の三菱重工のあたり約60世帯の国鉄官舎の町でした。
今、汐見町といっても知らない人が多いと思います。というのは埋立て工事で美しい自然と共に完全に姿を消した町だからです。
大木曽水路をはさんで、町の東は広大なアシ、ヨシの湿地でカモ、ヨシキリ、ヒバリ、サギといった野鳥の宝庫でした。
・・・この湿地と海をへだてる土手には形のよい松が生えており、汐見町のすぐ前の土手にはドクダミ、ハマユウガオ、ノバラ、ハコベ、クローバー、月見草が群落をなしていて昆虫がたくさんいました。
そんなところで私たちはオニヤンマ釣り、芦ぶえ、竹とんぼつくり、へびのぬけがら集め、無数にあったアリジゴクの観察など自然そのもので創造的に遊んだものです。
汐見町の前の砂浜は途方もなく広くて、台風のあとに波が打ち寄せてできた潮だまりで、タコや魚を手づかみでとりましたしアカ貝は一時間でバケツに山もりとれました。・・・とにかく二階の窓のすぐ前に土手ごしに海がありますし、夜、その上に出る月や星の美しかったこと。
あまりにも自然が豊かで、その有難さに気がつかなかったのです。
三菱製紙の悪水が目立ちはじめたのは昭和33年頃からで、小学校5年の時埋立てのため汐見町がなくなるというので松波町へもどりました。
中学を出て六年ほど高槻の方へ行っていましたが、帰って来てみると高砂はもう昔の姿をとどめていませんでした。
私にとって、あの汐見町はかけがえのない「ふるさと」でした。それは文字通り町の名まで消し去られたのです。
高砂は、こんな夢のような町でした。
入浜権運動について、『渚と日本人』で高崎裕士さんは、多くのことを語っておられます。ここでは、そのほんの一部を紹介させていただきました。
入浜権運動は、高砂から全国に発信されました。最後に、「入浜権宣言」を読んでおきます。詳しくは高浜さんの著書をお読みください。
入浜権宣言
古来、海は万民のものであり、海浜に出て散策し、景観を楽しみ、魚を釣り、泳ぎ、あるいは汐を汲み、流木を集め、貝を掘り、のりを摘むなど生活の糧を得ることは、地域住民の保有する法以前の権利であった。
また、海岸の防風林には入会権も存在していたと思われる。
われわれは、これらを含め『入浜権』と名づけよう。
今日でも、憲法が保障するよい環境のもとで生活できる国民の権利の重要な部分として、住民の『入浜権』は侵されてならないものと考える。
しかるに近年、高度成長政策のもとにコンビナート化が進められ、日本各地の海岸は埋め立てられ、自然が大きく破壊されるとともに、埋立地の水ぎわに至るまで企業に占拠されて住民の『入浜権』は完全に侵害されるに至った。
多くの公害もまたここから発している。
われわれは、公害を絶滅し、自然環境を破壊から守り、あるいは自然を回復させる運動の一環として、「入浜権」を保有することをここに宣言する。(no5011)
*『渚と日本人』参照