奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきました。
地方には国司・里長等の地方官が置かれました。
これら地方官の仕事は治安、なによりも農民から確実に税を納めさせることでした。
政府は、税を確実にするために土地制度を整えた。これが条里制です。
条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。
旧水路跡は、何を語る
条里制の土地があったことは確かめられています。
しかし、土地だけでは田畑になりません。水が必要です。
どのようにして水を得たのでしょうか。
池から得たとも考えられが、池の遺構がありません。
埋もれてしまったとも考えられますが、これだけ発達した条里制です。どこかで遺構が見つかってもよさそうなものです。
考えられることは、「かこがわ」の水を利用することです。
でも、「かこがわ」からの用水を造り作り、条里制の田畑に引いたとも思えないのです。
「かこがわ」は暴れ川だした。「かこがわ」のような大きな川に堰をつくり水を引いたとも考えられません。
この時代に大規模な用水作る土木技術はまだありません。
「かこがわ」は、太古よりその流路を幾度となく変えています。旧流路を見てください。
これら流路跡と条里制の遺構がたぶんに重なるのです。
つまり、条里制の土地は「かこがわ」の旧流路を用水として利用したと考えるのが自然です。
記録はないのですが、流路跡は「かこがわ」は洪水で氾濫し、流れを幾度となく変えたようです。(no5052)