私たちの地域で弥生遺跡というと、まず、大中遺跡を最初に紹介しなければなりません。
大中弥生遺跡(1) 中学生により発見
大中遺跡は、昭和37年6月、地元播磨中学の三人の生徒によって発見されました。
古くから「大増(おおぞ)の畑では土器が出るとか、大増には貝殻の山が三つもあり、じゃまになるので車で捨てに行った」とかいう話がありました。
しかし、公にはなっていませんでした。
古代の歴史に興味を持っていた播磨中学校の三年生の浅原重利(あさはらしげとし)、大辻真一(おつじしんいち)、大辻要二(おおつじようじ)君らは、大正時代にこの地に別府鉄道が敷設された時、多くタコツボが掘り出されたことを地元の古老から聞き、調査したところ、多くの土器片を発見しました。
これが、大中遺跡が世に出るきっかけとなりました。
県下最大の集落遺跡(弥生~古墳時代)
昭和37年12月25日、上田哲也氏(東洋大付属姫路高教諭)を中心に発掘が始まりました。
翌日には、さっそく住居跡の遺構を掘り当てました。続いて27日に第二号住居跡。
正月も休まずに掘り進むという熱意が実を結んだのか、三日には3つめの住居跡を発見しました。
そのため、考古学者のほかに古建築の専門家も加わって、本格的な調査が続けられ、昭和47年の春まで11回の発掘が行われました。
この間に「出た住居跡は合計43基」といってもこれはほんの一部でした。
遣跡の総面積は四万平方㍍にも達するのですが、発掘区域は十分の一にも満たない3000平方㍍で、全域を掘れば300基近くになると推定されました。
また、住居跡は円形、方形、長方形、六角形などそれぞれ違うタイプのものばかりで考古学的に高い評価を受けるとともに、大中遺跡は広く世に知られるようになりました。
この遺跡は弥生時代後期(2世紀)から古墳時代中期(5世紀)にかけての遺跡ですが、当時県下ではもちろん最大、全国でもAクラスの規模を持つ集落でした。(no4729)
*写真:大中弥生遺跡