人間の本質はその思考の限界で見える。 | ショーエイのアタックまんがーワン

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タッグチームLiberteenの漫画キャラクター・ショーエイが届ける、笑えるブログ・ショーエイの小言です。宜しくお願いします。

どうも…ショーエイです。

物事を考えるって結構疲れますよね。

人間が考えるのを辞める瞬間は、疲れたから。

もうこれで十分だと思う限界がその人の本質です。

 

一番単純なのは、口=論理で勝てないから

殴って力で抑え込んじゃえ。

面倒くさいから殴っちゃえ。

まあ、こいつと話しても無駄だから殴っちゃえとなるケースも有るわけですが・・・

 

日本の政治家にしても、コメンテーターにしても、

こういう程度の低い所で終わる人が後を絶ちません。

 

N国のタチバカ…

ネット上では本人は「実際はやりたくないんですけどね」と体裁上に言葉を吐いてますが、

結局は、「人口が増えたら選別して優劣付けて虐殺するしかな無い」

が彼の結論な訳でしょ、

それ以外の方法を考えない時点で彼の本質はそこ止まりな訳です。

更に、信用してはいけない本質は、優劣を人間に付けて選別するという発想。

いわば自分が優勢として生き残れればいいという考えな訳で、

その他の人間に対する敬意は全く有りません。

また、こうした発想の持ち主は、自分が神でありそれを選別できる権利が有ると勘違いしている人でも有ります。

 

同様に、ホリエバカふみも

「12年働いて手取り十四万円しかもらえない…日本終わってる」

というコメントに対して、

彼は

「終わってるのはお前だ!!」

と、センスのないジョークを飛ばしたわけですが、

彼の中に何の日本に対する危機感も感じていない

平和ボケした程度の低さを感じた点は否めません。

まあ、自分が復活して再び金を手にできたから

他の人間の事は知らないという姿勢が本質なのでしょう。

 

寧ろ、手取り14万程度の人がゴロゴロ居たら、

日本の国内需要は伸びないわな…

そりゃ儲けも少ないし市場としての魅力も中国以下になるわな…

と感じて欲しいね。

 

体裁を繕おって人請けする事を言うのは簡単です。

でも、その人のジョークのセンスは、

その人の笑いのツボを表し、

そこが考え方の本質に成る事を知っておいてください。

因みにウチの魔仙妃ちゃんのツボは、

人をバカにしている奴を馬鹿ににするのがツボだそうで、

アホ首相や、タチバカ、ホリエボンのように

勘違いして人を嘲る人間が地獄を見るのが

一番楽しみなのだそうです。

まあ、クレイジーな本質です。

 

ちょっとマニアックなニュースですが、

テイラー・スウィフトのレイシック手術を受けた動画で、

ジャスティン・ビーバーがテイラーをからかったニュース。

https://www.cyzowoman.com/2019/10/post_253460_1.html


正直、ジャスティン・ビーバーにはガッカリ…

夫婦で超セクハラ行為を堂々と公表したナンセンスな笑いのツボ。

逆に、同じようにフザケてあげるとすると…

 

ジャスティンには幼少のテイラーがそういうモノを欲しがるように見えるんだ…何とも痛々しいご趣味な事で・・・子供作らない方が良いかもね。

(付け加えて)・・・あ、ゴメン、お猿さんには忠告しても無駄だった…

 

と、不本意ながら自分のツボを表明した魔仙妃ちゃんでした。

まあ、魔仙妃ちゃんに言わせれば…

ジャスティンが私のツボを引き寄せたのが悪い!!

という事です。

 

人間の本質というのはその怒りのポイントであり、笑いのツボで見抜くことが出来るのです。

 

【河村たかし・・・君の表現の自由とは?】

まず最初に、愛知トリエンナーレの話で、

色々な主張が独り歩きしている訳ですが、

実際に、何に対して怒っているのか漠然としないのが現実。

天皇陛下の肖像画が焼かれた映像・・・と有るけど、

一体どんな映像だったかご存じなく、

ただ、「河村たかしが日本人に対するヘイトだ」と怒っていることしか

伝わりません。

そういう意味で、何を以て議論としているのかを知る意味で、表現の自由という形で公にどういう表現だったのか紹介する義務が有ると言えます。

こういう意味で「国民の知る権利」として表現の自由は存在する訳だから、河村たかしが何を主張しようがその実態を確認しない事には、その表現がどういうモノかも隠蔽されてしまうと言えます。

自分の主張が正しいと「表現の自由」を以て訴えるのなら、適切な議論となる様に多くの人に問題の動画を見てもらいなさい。

そういう意味では、愛知トリエンナーレの展示を中止するのではなく、寧ろその中身をテレビでも紹介すべきなのではという事です。

そういう様々な見識を公平に議論する上で、逆にその題材を見せないという働きかけは寧ろ違憲であり検閲行為に成るのは当然です。

 

因みに、それを見て傷付いたというけれども、日本国に傷つけられたという人がその趣旨を表現しただけの事だから、心情としては相殺される話です。寧ろ、日本に傷つけられたという心的外傷を更に閉鎖的な議論で冒涜すれば、更にその人たちを傷つけることに成り、河村たかしの言う暴力的な行為というならば彼の行為も暴力イ的なモノと成ります。

寧ろ、そういう話ならちゃんと議題として議論できるように、やっぱり国民は確認できる状態にすべきなのが正常な状態では無いでしょうか。

展示物を見たくない知りたくない人は愛知トリエンナーレへ行かずに見なくてもいい状態なのだから、確認したい人が確認できる状態は問題視する状況でも有りません。

見せたくないは寧ろ表現の自由に対する検閲で、公共の福祉に反する行為そのものです。

 

では、天皇陛下の肖像画に関するモノ。

先ず、それを失礼だとか日本人に対する冒涜と唱えるのは一つの表現です。そしてそれに対する怒りを抱く感情も正常です。

ただ、日本人の歴史認識が曖昧で、第二次大戦中日本軍は歓迎されていたなどと言う主張に対して、占領地の人々がそんな出鱈目をよくのうのうと言えるなと憤る気持ちも察します。

そういう意味で当時の象徴でった写真を焼き付ける事で、歓迎されていたという日本の都合に合わせた表現に過剰な形で怒りを表現した作品とも捉えられます。

お互いに腹立たしい表現を以てぶつかり合うのなら、お互いの尊重を用いて理解する事が先ず先決なのでは…まあ、このまま怒りがぶつかり合えば、殺し合いになる結末を呼び込みそうですね。

殺伐とした感情を持ち続けるならどうぞご自由に。何の利も無い話だけど…寧ろ尊重し合って上手く付き合う方が利に成ると思うんだけどね。

https://www.cyzowoman.com/2019/10/post_253460_1.html

 

現・天皇家の寛容な姿勢を尊敬するなら、寧ろこれは一つの怒りを示した表現として日本人は受け止めるべきです。

現・天皇家は昭和天皇が示された戦後の姿勢を踏まえて、戦争に巻き込んだ諸外国へ様々なご配慮をされていると同時に、現人神としてでは無く、日本の象徴として、そして日本人として人が受けるべき様々な因果も十分に受け止められる寛容な人格者であると思います。

故に、諸外国または日本国内に於いても様々な感情がある事をご理解され、それをも真摯に受け止める姿勢であるがゆえに、日本の象徴として立派なお役目を果たしておられると考えます。

そういう意味で日本国民もそうした感情に真摯に向き合い、誠実に歴史の在り方を他国と共有することは求められるモノです。

戦争に彼らを巻き込んだ事実は変わらない訳で、米国との戦争は前後の外交上の問題は別として、実際に戦争に至ったのは日本による真珠湾攻撃が切っ掛けです。

そうした事実を美化せずに受け止めるのが大事で、

美化するのは物語の中だけにしとけよ!!という事です。

 

【徴用工問題、無実を証明する必要性がある話】

雇用と賃金不払いの問題が発生した場合、労働者は働いたという証明を提示しなければならず、使用者は支払ったという証明をしなければ成りません。これ当然の論理。

 

徴用工たちは写真など色々な物証であり、証言などを以て働いていたという証明を既に認められています。

その上で日本側が提示できないのは支払ったという証明です。

当時が今の様に給与明細なるものが存在していたのなら、それで支払いの証明と位置づける事は出来ます。

もしくは銀行の振込明細でも構いませんが、恐らく当時の日本にはそのようなモノが存在していなかったと言えます。

故に、払った証明が出来なければ、払ったという証拠は無いわけで、徴用工として不法に労働させた事は否定できません。

また、戦時中の軍事的圧力下での話である点、日本人と韓国人と言う地位的な格差が生じていた点など付け加えれば、より徴用工が事実として無かったという根拠は無く成ります。

※故に、事実として認めて日韓協定で既に解決したというのなら既に決着のついた話ですが、それを事実として無かったと主張したら、日韓協定の賠償に関するところに徴用工であり慰安婦問題に関する謝罪は含まれないという主張も正当化されます。

 

ただし、既に70年以上も経過した出来事で、当時の給与授与形態も帳簿が焼失したなどの可能性も踏まえ、より明確化する為に、「リバーストレース」と名付ける手法を提案します。

リバース・トレースとは「逆追跡」で、

政府の管理監督が事実として成立しているのなら、必ず何らかの問題発生に関する資料が存在するというモノで、「逆」という意味では適正に法によって管理されていたのなら「問題が何も発生していなかった」という状態よりも、「問題が発生し処罰や勧告等で対処した」という事実が出てくるという意味です。

いわば、労働基準法で賃金未払いが発生した場合、それが事件として調査され労働基準監督署または都道府県知事によって支払い勧告が為されて適正に処理される、又は民事裁判等で対応され結果社会的に不払いを監督した事実が残る訳です。

そしてこういう事件は社会的に必ず発生するモノで、問題が発生していないという事の方が有り得ない話です。

故に、当時の日本政府にそのような問題がどれほど発生し、それにどう対処していたかの資料が有れば、寧ろ徴用工問題も慰安婦問題も適正な管理の下対応し、当時に日本政府に社会的な非は無いと主張できます。

 

しかし、そのような資料が存在せず、寧ろ事件であり問題として挙がってきていないのなら隠蔽された不法行為が存在したという確定事項に成ります。

※こういう資料は恐らく存在せず提示できないだろうから、当時の日本政府であり企業は有罪確定という論拠に成ります。

 

戦時下で徴用工や慰安婦問題は100%発生しうると言った根拠もこういう事です。

現代の様に管理監督がある状態でも、残業代未払いだとか、過労死だとか、ハラスメントが発生する訳です。

管理監督されているがゆえに事件として公表もされるわけで、全く対応は現状でも不完全で有りますが、それでも事実として問題は提示されてます。これが逆に何の問題も提示されていない状態と考えたら…

全ての不法行為は完全に隠蔽され、何も無かったという事実を押し付けられた状態に成るのです。

こういう考えで適切かつ中立に物事を計ると・・・

Oh My God!!Primeminister Aho is goddam fuc*** sit!!

this motherfuc*** is Fuc*** Joke!! Dam Ass!!

と、魔仙妃ちゃんが愕然とする状態に成っている訳です。

 

 

 

人間の本質に纏わる話は

吉川英治の三国志の一説に面白いモノがあります。

このエピソードは実際はとても複雑です。

蜀の国を計略によって奪う形となった劉備陣営で、

ある時に酒に酔った玄徳が

もうすぐ蜀が自分の国に成ると実感したとき、

ツイツイ陽気に喜びを示したというエピソード。

それを見た軍師龐統はあれだけ信義を重んじて、

無私を貫いた御仁が、この様な不義な形で喜びに浸るのか…

と、その偽善を疑う訳です。

 

さて同じ状態を孔明先生が知ると…エピソードには出てきませんが・・・

信義の道を通し続けようやく大義たる足掛かりに踏み入れたのなら、自の天命が証明されたと喜ぶのは人としてこの上ない喜びかな…

と、偽善というよりも人として当然と感じた事でしょう。

 

この違いの本質は…

龐統先生は君主である劉備を聖人または神として尊敬しており、孔明先生は寧ろ人間劉備を見ていた。

人間として信義を貫くことは、物理的に損する事が多く、険しい道である。その上で大義を為すにはその損を何かの運で補うしかない。

その運は人徳であり、人望によって支えられ、逆に敵が信義を裏切る形の運を以て貫き通したうえで大義への利をようやく得られた訳です。

人間として善であるから信義を通せるのではなく、信義あればこそ信頼を得られるという利を重んじて信義を貫き通す訳で、最終的には頑固な生き様を見てその本質=人として何を利としているのかを見分ける事が出来るのです。

言葉の上では体裁を繕う事は簡単ですが、決断やその思考で必ずボロが出ます。

奥さんを「愛している」というのは簡単だけど、

美女の誘惑であり、エロエロな妄想に耐え抜くことは、

本当に大変な事だとオッサン先生は言ってます。

貴方は耐え抜きますか?それとも隠し通しますか…

もしくは妄想位は許してとお願いしますか?

愛を表現する方法は人それぞれですが、

意外とその気持ちが嘘か真かの本質は、

その態度で見抜けるものです。

勿論、それは他人(国民)に対するモノも同様です。