うつけの兵法 第十話「花倉の乱」 | ショーエイのアタックまんがーワン

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【第十話 花倉の乱】桶狭間へのカウントダウン 残り15+9年

〔ドラフト版〕

 

桶狭間に於いて今川義元は首を取られた大名として有名で、

大軍を以て信長に敗れた敗将のイメージが強い。

桶狭間には様々な候補地がある訳だが、

その中で現在の中京競馬場寄りの北側ルート、

いわば鎌倉街道を通って

そこから鳴海を囲むように行軍していたのなら、

筆者は今川義元を愚将と評価したであろう。

そしてそういう行軍であった事を寧ろ望んでいた。

その方がこの桶狭間を解析するのに簡単だったからだ。

しかし、調査していくうちに今川義元は堅実な行軍をしており、

定石通りの戦いであったなら確実に勝利していたといえる。

 

現代人はゲームの感覚に頼って戦争を見がちで、

歴史家は資料に頼って

そこで見えない駆け引きを見落としがちなのである。

 

圧倒的不利からの大逆転は、

大軍の抱える難題を理解しなければ成らず、

その点に於いては三国志の赤壁の戦いは、

両陣営の状況が記された珍しい記録である。

そこには兵糧の問題であり、

疫病や弓矢の数など、

ただ単に兵力だけの話では済まされない点が伺える。

 

いわば長期化すればするほど兵力の多い側は、

兵士に食わせる兵糧で悩まされることに成る。

 

兵士の体力や精神的な部分も色々と影響する。

無論、劣勢側の精神状態は崩れやすい。

しかし、決死を決めた、いわば背水の陣と化した部隊は、

指揮官への信頼が有れば強く保てる事も有る。

 

坂道を駆け上がった後に戦闘となる状況も

現実的に考えて見る事も大事だ。

体力のある者…いわばスポーツ選手だったとしても、

1日、2日は何とか成るかも知れないが、

それ以上連日して続くと疲労感はかなりのものとなる。

それでも体力を消費して駆け上がった先に、

同じレベルの選手が居たとしたら、

その時点で不利になる点は否めない。

これらが地の利と言われる部分で作用することに成り、

それは坂道に限らず、沼地や川を渡る事でも発生する訳だ。

 

筆者はゲームで遊ぶことが多く、

最近のゲームではこうした要素が

よく反映されている点は理解しているが、

そうした効果がゲームであるがゆえに緩和されており、

さほど実感するレベルとは至っていない。

 

それらの要素を踏まえて、

今川義元が討ち死にした桶狭間の位置を見てみると、

前線への補給拠点を兼ねた

指揮をするに最適な場所であったことが伺える。

いわば補給第一拠点の沓掛城から、

桶狭間を経由してそこから前線を支援する形にするなら、

その輸送経路は守りやすく

また素早く前線に援軍も送れる場所に成るのだ。

 

信長の逆転劇の詳細は後程記すわけだが、

今川義元が決して愚かな武将で有った訳では無い事は

知っておいてもらう方が良い。

 

その今川義元は幼名を芳菊丸、そして梅岳承芳と名乗り、

家督相続によって義元と成る。

父は今川氏親で、母は寿桂尼とされているのが基本で、

氏輝の5男であった。

今川氏親は自身の家督相続、

いわば北条早雲とされる伊勢盛時の支援を受けて成し得た経験から、

嫡男以外は出家させる形を取ったとされる。

次男の彦五郎とされる人物に関しては、

嫡男の氏輝が病弱で有ったため出家をさせていなかったとされているが、

氏輝と彦五郎がほぼ同じ時期に急死しているため

同一人物と考えられてもいる。

 

幼少の義元いわば芳菊丸は4歳で駿河の富士郡にあった善得寺に預けられた。

善得寺の住職承舜が亡くなると、その弟子の九英承菊が後を継ぎ、

芳菊丸の教育係を務めた。

この九英承菊が後の太原雪斎である。

承菊(雪斎)は京の建仁寺という京都五山にあたる名門の寺で修行し、

その才覚を評されて氏親の要請で駿河に招き入れられたとされる。

元々の出自が今川家の譜代の庵原氏であった事もあり、

何かと駿河今川との関りも元から有ったとされる。

それほど義元の父・氏親に期待されていた承菊なら、

本来は嫡男の氏輝の教育係と成っているべきだが、

承菊が選んだのは5男の義元こと芳菊丸であった。

 

おそらく承菊は嫡男氏輝が病弱であった点を察して、

これを補佐するより、健康な芳菊丸を育てて、

氏輝が早世しなければその参謀と成る人物に、

早世した際は、その後継ぎとする意味で、

こちらを選んだと思われる。

こうした経緯から氏輝=彦五郎と考える方が良く、

芳菊丸の序列は、氏親の4男で、

その正室寿桂尼との間では次男であったとする方が、

辻褄は合わせやすくなる。

 

太原雪斎こと承菊の下に弟子入りした芳菊丸は、

承菊に従って2度も上洛して修行している。

1525年の最初の上洛は、芳菊丸まだ6歳の時で、

1530年にはその上洛した地の建仁寺で得度の儀式、

いわば頭を丸めて袈裟を与えられ僧侶と成り、

芳菊丸を改めて承芳と成った。

その後、一度駿河に帰国し、

1533年14歳の時、いわば元服に値する年齢で、

今度は京の妙心寺へ赴いて、道号「梅岳」を名乗り、

梅岳承芳と成るのであった。

この間、承菊こと太原雪斎が師として付き添っており、

かなり厳しく僧侶としての鍛錬を仕込まれたと考える。

 

1526年、義元がまだ7歳の時に、氏親が亡くなっており、

この頃に兄・氏輝が13歳で跡目を継いだ。

寿桂尼の存在によって跡目争いはほぼ無く、

無難に事が進んだ今川家だったが、

結局、今川家中の力は寿桂尼に集中する事と成り、

氏輝はその母の傀儡という存在であったと目される。

無論、息子を立派な後継者とする意味で、

寿桂尼は政務を徐々に氏輝に移すようにはしていたように記されるが、

結局は母親の言いなりに動く息子であった点は否めない。

それ故に寿桂尼は氏輝を溺愛していた。

一方の梅岳承芳と成った義元は、

4歳で既に手元から離れており、

ほぼ京と駿河の離れた場所故に、

お互いが合う事すらなかったと言える。

故に寿桂尼の中ではさほどの愛情は無いといえる。

これは寧ろ信長と土田御前の関係でも言える現象で、

母親の愛情が届かない場所で過ごした梅岳承芳も、

ほぼその存在が麻痺した状態であったと言える。

 

1536年にその氏輝が死ぬと、

順当に見えたかの後継者問題が

思わぬ亀裂から生じてしまうのである。

ここからは歴史家が見えなかった実態を

当時の情勢から分析して話を進めて行くものと成る。

記録上で不可解な点は寿桂尼の行動である。

梅岳承芳(義元)が跡目を継ぐことで一致していた寿桂尼は、

花倉の乱で敵方になる福島家と同調して、

玄広恵探の支持に切り替えたという記録が存在する点である。

それらの記録から義元は寿桂尼の実子では無いとする説も浮上した。

ところが情勢を紐解くと、

義元は武田との同盟を望んでおり、

一方の寿桂尼は、

北条との関係で武田との同盟は不義を起こすと考えていた。

政策論争、いわば家族の方針で親子が喧嘩する事は自然な話で、

旅行の行き先で揉めて家族間が険悪になる事も有る訳だ。

こうした関係性から寿桂尼が義元に失望したとすることも考えられる。

また溺愛した氏輝とは異なり、ほぼその成長過程すら知らない次男に、

親としての絶対の信頼を与える事は寧ろ難しく、

猜疑の心すら生じる話でもある。

いわば、

(自分の話が理解できないその次男坊は、本当に自分の子供の芳菊丸なのか?)

と、疑いどこかで知らない子供にすり替えられたのではとも考えそうな話である。

よって寿桂尼としては自分と意見の合致する北条よりの家臣に寧ろ期待し、

実子では無いが、今川家の為にそちらを支持した方がマシと考えた可能性は高い。

 

何故、寿桂尼はここまで北条に拘ったのか?

 

それは夫を愛する良妻の思考ゆえ、と言える。

夫である氏親は北条早雲こと伊勢盛時に多大な恩があり、

その後も北条家の支えと共に今川家の領国経営が成り立っていた。

良妻であるがゆえに夫が大事にした関係を堅持する気持ちも強く、

それが今川家繁栄の条件であると考えても可笑しくはない。

そういう母親は氏輝にとっては賢母である。

故に成長した後も、母の意見を取り入れてこれに従っていたと思われ、

その結果、氏輝の相続は上手く行っていた。

三河の森山崩れと同じくして甲斐の武田信虎の動きには、

北条家と連携してこれを凌いでいる。

無論、氏輝が急死したのはこの直後であり、

北条家を蔑ろに考える事は許される時期でもない。

 

一方の太原雪斎こと承菊は武田との和睦を狙っていた。

そこには北条との関係を切って武田と結ぶという発想では無かった。

しかし現実には2者択一と成る。

甲斐の武田信虎は関東の覇権を狙う北条が敵対する

武蔵の扇谷上杉家と結んでいたからだ。

無論、そうなる事は雪斎こと承菊も承知の上で、

承菊は武田と結ぶ道を勧める。

 

1536年今川氏輝の葬儀で梅岳承芳は

後継者を意味する喪主として参列しているようで

この時点で当主として認められている。

さらには京に人脈を持っていた承菊(雪斎)の計らいで、

足利義晴からの偏諱も賜っており、

義元と名乗る事で、

家中にその正当性を証明する手はずも整えていた。

 

最愛の氏輝の死で、

寿桂尼はその弟の義元に期待したかに感じるだろうが、

人間の本心と言うのはそこまで優しくはない。

愛情の重さは変化する事はあっても、

常に平等とは行かず偏ってしまうところがある。

そうした中で自分の側で成長し、

同じ価値観で理解し合えた氏輝と、

自分から離れて自分の価値観と異なる考えで成長した義元、

母親としての愛情は全く異なってしまう。

 

また母性の本質として、

夫である氏親への愛の継承が氏輝であり、

その愛を継承する意味として夫の今川家を守るという意識に、

母性は働いていく。

その氏輝が死んだ以上、

その母性は今川家という部分に注がれ、

義元が例え自分の実子であっても、

氏親の残した今川家を崩壊させると感じたのなら、

今川家という意識に偏重するのも当然なのである。

 

承菊の手際の良い義元への家督相続は、

寿桂尼も噂通りの才覚と関心したわけだが、

武田との同盟を示唆した事で、

寿桂尼は猜疑を抱いた。

時を同じくして寿桂尼は北条氏綱(早雲の後継ぎ)の嫡男、

北条氏康に自分の娘瑞渓院を嫁がせている。

武田と北条は上記に記した通り、決して相容れぬ状態にある為、

休戦ならまだしも和睦・同盟という話に成れば、

明らかな北条への裏切りと成る。

 

太原雪斎こと承菊の進めていた話は寧ろ後者の話で、

この時点で信虎の娘の定恵院を義元の正室に迎える話まで

進んでいたと思われる。

 

才覚はあれど新参者である承菊を快く思わない人間も居た状況。

いわば承菊は義元の教育係であったにすぎず、

その地位を利用して今川家を自分勝手に操りだしたという印象を与えたのだ。

そこで重鎮で且つ、元々伊勢盛時(北条早雲)に近かった福島正成は、

寿桂尼に、

 

「還俗したばかりの新参者の義元殿では、今川の伝統も理解せず、

北条との関係を蔑ろにして、いずれは今川を危うくする。」

 

と説いた上で、

 

「今川が誤った方向に進む前に、当家(福島家)の姫が残した氏親公の実子、

玄広恵探殿を寿桂尼の養子として迎え入れた上で、

正当な後継者として迎え入れる形を考えて貰えないだろうか…」

 

と、提案した。

寿桂尼も北条との関係を危うくする承菊と義元では、

今川家の将来を託せないと判断して、

福島正成の提案を受け入れた。

恐らく寿桂尼が玄広恵探支持に回った経緯はこういう流れであったと推測する。

ところが福島正成が玄広恵探を招き入れた時点で、

事は発覚する。

 

恐らく玄広恵探の動きを警戒して監視していた承菊(雪斎)が、

福島正成の招きで久能城に入った知らせを受けて、

騒乱の気配を察したのである。

 

と、言うよりもむしろ承菊ほどの才覚がある人物なら、

敢えて不穏な空気…いわば武田と同盟をちらつかせて、

反目に回る人間をあぶりだし、

その反目が旗頭として祭り上げる玄広恵探を

早めに始末する策を考えたとも言える。

手はずを整えて義元を正当後継者としてアピールしておいたのも、

こうした動きが広がる前に圧倒的な状態で治めるためだったとも言える。

 

さらに承菊ほどの人物なら、

今川の柱とされる寿桂尼の存在にも気を使っている。

寿桂尼が北条との関係を重視して、

武田との同盟に納得していなかった事を察していた承菊は

武田との同盟を見直すとした旨を寿桂尼に伝えて、

寿桂尼の影響力を早めに寝返らせた。

 

策士は腹黒いとも思われる事を平気でやる。

寧ろ承菊の腹は、義元の下で今川を盤石な状態にする事であった。

承菊は寿桂尼に

 

「寿桂尼さまの考えを改めて精査すると、

やはり寿桂尼さまのお考えが正しいかと思い、

何卒、今後とも北条との繋がりにご助力頂ければと思います。」

 

そして承菊は

 

「武田との盟約は一度白紙に戻す様に計らうつもりです。」

 

と、寿桂尼をヨイショする形を取った。

そして福島正成と玄広恵探の動きに言及して、

 

「正成殿に不穏な動きがみられるゆえに、

寿桂尼さまの力で何卒説得頂けないだろうか…

今は義元公の下で今川を団結させることが一番大事と考えておりまするゆえに」

 

と、付け加えた。

すると寿桂尼は、

 

「正成殿と玄広恵探殿には私から説得してみます。」

 

と、言って自ら説得に出向いた。

この間、承菊は予め説得が失敗する可能性を考えて、

早めに駿河府中の今川館で軍備を整えてこれに備えた。

 

寿桂尼の説得は無論手遅れで有った。

愛情の重さが変化して、

価値観の異なった義元を一度は突き放したが、

寧ろ自分の価値観を理解された事で義元を息子として認めたのだ。

ところが福島正成からすればそれは身勝手な話でしかない。

一度は認めたはずの話が、反故にされたという事だ。

ここで寿桂尼は福島正成のその本心に猜疑の目を向けるのだ。

いわば今川の家の為と称した福島正成の気持ちは、

実は口実でしか無く、

本心は自身の血族の玄広恵探を跡目にしたかっただけという点に

陥るのである。

正成の腹の内を実際に批難できる話ではない。

日本人は道徳的な見識を勘違いして、

正成の野心的な心を批難するであろう。

しかし誰しも自分が実権を握る方が上手く行くと考えるのが当然で、

その上で今川家の為になるというのは嘘ではないのだ。

結局は誰が義元であり寿桂尼の権限を利用して

今川をコントロールするかの話な訳で、

それが福島正成で有るのか、承菊こと太原雪斎で有るのかの違いなだけだ。

しかし、正成は運が悪く、

むしろ承菊にその野心をあぶりだされただけと成ったのだ。

 

交渉が決裂し、寿桂尼を返すや、

意を決した福島正成と、名を今川良真と改めた玄広恵探は、

すぐさま今川館を急襲した。

寿桂尼の交渉が決裂し、

今川館に軍を差し向けた時点で、

正成と良真は今川の謀叛人と成る。

こうした印象固めも承菊の狙い通りとなった。

予め準備を整えていた今川館は固く守られ、

逆にあっさりと形勢不利に追い込まれて、

元の久能城(静岡市)にすら戻れず、

方ノ上城(焼津市)へ逃げ込み、

その後、花倉城(藤枝市)へと入って態勢を整えた。

 

承菊は説得に失敗した寿桂尼を

あえて頼る姿勢を示して

北条からの援軍を手配してもらった。

そうした細やかな配慮も忘れないないのが

優秀な軍師たる姿である。

 

無論、北条の援軍の必要も無く、

今川の家臣岡部親綱が方ノ上城を攻め落とし、

すぐさま花倉城は包囲された。

遠江で福島らに同調する者も現れたが、

ほぼ難なきを得て鎮圧されている。

 

包囲されて間もなく、福島正成と良真は花倉城を逃げ出すが、

良真は瀬戸谷の普門寺にて自刃し、

福島正成は甲斐方面へ落ち延びた際に、

武田信虎の手勢に捕まって殺されたとされる。

 

一方、その息子とされる後の北条綱成という部将は、

方ノ上城から逃れた際に、援軍に来ていた北条の手勢に捕まり、

そのまま小田原に送られたと推測する事も出来る。

その後、父・正成の敗北の報を受けて、北条に下り、

その勇ましさを評されて氏綱に気にいられ、

その後その一族に招き入れられたとする方が、

流れとしては理解しやすいと思われる。

 

記録上では花倉の乱は

大きなお家騒動に成らなかったものとして考えられるが、

実際に複雑な関係性を紐解くと、

そこには太原雪斎こと承菊の見事な采配の影が見受けられる。

ここまで手際の良い流れで、

かつ寿桂尼に対しても配慮を以て治めたのは、

仏門に精通し、俗世の心情を察する事に長けた手腕とも言える。

当初寿桂尼も疑心暗鬼であった承菊の才に、

事が治まれば圧倒されたと気づくのである。

 

そうした信頼をも勝ち得た承菊は、

再び寿桂尼に相談を持ち掛ける。

いわば武田との同盟の話である。

 

一介の教育係から名僧という印象に変わった承菊の言葉は、

全く別の話として理解できた。

そこで承菊は寿桂尼に説いた

 

「今川と北条の関係は、今川が北条に頼る形では

今川の為に成らず、北条が今川を頼る形こそ、

今川にとっての北条となります。」

 

と、難しく話した。

そして地の利を話す…

 

「北条は武田、扇谷上杉を二方向に敵が存在し、

これに今川が加われば三方向が危うく成ります。

今川は三河、武田と二方向に敵が居るだけで、

力は分散されます。」

 

更に・・・

 

「今川が今為すべきは京への上洛の道筋で、

それには三河と尾張を手中に治めるべきで、

願わくば武田と北条の双方をこの味方とするべきです。」

 

そして…

 

「武田は今戦に疲弊し、盟約を結ぶには最適な時を得ており、

武田が信濃に集中できるのならこの盟約は相互の利と成り得ます。

北条は一時的にこれに反発するでしょうが、

三方の敵に囲まれたと理解すれば、自ずと今川を頼ってきます。」

 

この話に寿桂尼は気がかりな事を感じた。

それは自分の娘の瑞渓院の事である。

既に北条氏康に嫁がせた彼女の身を案じての事である。

そこで承菊は…

 

「寿桂尼さまには今後も北条との間を取り持っていただく形で、

一芝居打ってもらいたいのです。」

 

承菊の言葉は少し解りづらかった。

承菊は続ける。

 

「寿桂尼さまは武田との盟約には反対しているが、

私と義元公がこれを聞き入れずに困っていると北条にお伝えください。

それで北条に嫁がれた瑞渓院さまの身は守られることと・・・」

 

承菊は寿桂尼に今川の内情を瑞渓院に流して、

北条に密偵としての価値を意識させれば良いと話した。

無論、承菊はその辺の演出も上手くコントロールするつもりでいた。

しかし、寿桂尼は、

 

「それでも武田との盟約は考えなおせぬのか?」

 

と、承菊に聞くと、

承菊は

 

「三河は松平清康が亡くなって、今時を得ております。

伊豆からの敵は守りやすく、甲斐からの敵は守りにくい。

故にこの期を確実に得る上では、武田との盟約が必須なのです。」

 

と、そう説明した。

実際に伊豆からの敵は富士山麓で狭くなった海岸線を守り切れば、

これに備えやすいが、

甲斐からの敵は山上から駆け下りてくる形に成るがゆえに、

守りにくく戦いにくいという地の利の話も合った。

無論、駿河から甲斐へ攻め込むには、

山を登って行く分、兵は疲弊して不利になる。

甲斐の武田が攻められにくかったのも、

こうした地の利を得ての事であったと考えられる。

 

ある意味、寿桂尼がこれを聞き入れない可能性も有った。

しかし、その駒となる今川良真こと玄広恵探は既に居ない。

故に無理に逆らう選択肢は無いと言えた。

無論、承菊はそういう失礼な脅しは用いない。

あえて寿桂尼に協力を持ち掛けるのである。

 

「いずれは北条と再び結ばねば成らない故に、

寿桂尼さまにその繋がりを保っていただく必要が有るのです。

京の混乱を今川が平定する為に、何卒、お力添えを。」

 

と、承菊は頼み込むのであった。

寿桂尼も名僧として敬意を持ちはじめた相手の言葉に

信頼を寄せてみる決断をするのであった。

 

1537年武田信虎の娘、定恵院が義元の正室と成る事で、

今川と武田の間で強固な甲駿同盟が結ばれた。

当時武田と抗争状態にあった北条は、今川の裏切りと見て、

これに憤った。

そして甲駿同盟が成立するやすぐさま今川に軍を差し向けて、

富士川以東を占拠した。

これを第一次河東の乱と言う。

無論、富士川を挟んで北条の侵攻を食い止める事は、

承菊が考えていた防戦でも有ったため、

北条側もそれ以西に向かう事は適わなかった。

 

しかし、武田と扇谷上杉と結んで三方向から仕掛けるも、

承菊の予想とは異なり、北条は見事にこれを退けた。

ある意味、北条も富士川を挟んで守りを固め、

寧ろその間に扇谷上杉の当主が亡くなってしまい、

その家中で騒動が起きた隙に、北条は河越城を落としてしまったのだ。

 

さすがの承菊も人の子である。

苦戦を強いられて北条が同盟参加に興味を示すと考えていた目論見は、

まんまと外れてしまうのであった。

しかし、それでも富士川を挟んで北条を食い止める算段は

上手く機能した為、三河攻略へ目を向けられるので有ったが…

武力行使は難しく別の方法に切り替えなければ成らなくなった点は否めない。

 

そこに…逃亡していた松平広忠の存在が飛び込んできたのだ…

 

どうも・・・ショーエイです。

太原雪斎がこんな凄い軍師であったと、

当初は考えても居なかったみたい。

花倉の乱を調べて行くうちに、

色々意味不明な寿桂尼の動向が見られたため、

それらに辻褄を合わせて行くと、

やっぱりこの太原雪斎=九英承菊の才覚に

頼らざるを得ないという事が見えてきたのです。

 

やっぱりそれ相応に評価された人物だけあって、

やっぱりその才覚が生きる場面だったようだという話に成ったわけです。

 

さてと…グチグチ…

 

【学術会議問題…その後】

何とも…国会答弁見ていても何をやっているのという感想。

自信満々に立憲民主党が質疑でやっているが、

追い込むところ追い込めていない。

 

相手=自民党が、

「説明する必要が無い!!」

と逃げ切るのに対して、

「説明責任を果たしていない!!」

と反論した所で…国民にとっては

進展の無い状態を続けているだけにしか見えないという事を、

そろそろ理解した方が良い。

解るよ…正しい事言っているのは…

でも、殆どインパクトのない事。

寧ろその辺はトランプを見習っても良いかも。

 

寧ろ自民党を追い込緒むのなら、

「説明する必要が無い!!」

という言葉に対して、

「それ違法です!!」

または

「それ違憲です!!」

と言い続ける方が、効果が有る。

 

そしてそこに根拠があれば、

トランプの言葉よりも正しく聞こえる。

トランプはそう言い続ける事で、

錯覚を与える訳だが、

それでも効果はある点は今回の大統領選を見れば

理解できる。

しかしそこに根拠を持たせれば、

それ以上の効果が出る話です。

 

【先ず違法性・・・】

任命とはどういう意味ですか?

任命とは「任じる」という行為以外の言葉は有りません。

任命拒否とはどういう意味ですが?

任命拒否とは「任ずること拒否する」という意味に成ります。

選任とは?

選任となって初めて「選出して任ずる」という意味に成ります。

 

法解釈に於いて、当ブログでは、

多重解釈、最大許容という言葉を用いてますが、

意味が通じない言葉をどう多重に解釈しても、

その意味が該当しないものは許容にも入りません。

 

いわば任命という言葉の中に、任命拒否という意味は含まれない訳で、

法文書に「任命する」とあれば「任命」以外の行為は出来ないと成ります。

これを任命するの中に任命拒否という意味が含まれるという解釈は、

そもそも馬鹿な話なのです。

 

学術会議の文脈には

「内閣総理大臣は任命権者としてその権利を有する」

という表記では無く、

「内閣総理大臣が任命する」

という文脈に成ってます。

上記の表現なら、「任命権者としての権利」という言葉で、

その解釈は変わってきます。

しかし、「任命する」とだけある場合、どう解釈しても任命することしか出来ないのです。

任命の言葉の中に、任命拒否という反対の意味はどの辞書引いても出てこないでしょ。

だから任命という言葉にそれらの権利は無いのです。

選任ならば、選ぶという権利がある訳だが、

どうやらその言葉を勘違いしただけのバカの故事です。

 

さて、こうした馬鹿な故事どおりの法解釈を用いた場合、

憲法15条2項に違反した事にも成ります。

 

15条の2では、公務員は全ての国民に奉仕するのであって、一部に奉仕するものでは無い。

全ての国民に奉仕している証明は、

その行為が憲法または法律に従って、だれにも公平である証明があってこそ言えるわけで、

法律、いわば法律としてその公平性を国民と契約したものに反した行為は、

全ての国民に奉仕したことには成らず、

自分の私的なところ奉仕したことと成るのです。

 

どんだけ言葉で国民の為と言っても、

そんな証言はなんの法的効力も有りません。

法律に基づかない行為は

全て違反行為なのです。

いわば国民の信託を裏切った行為なのです。

 

こういう根拠を示した上で、

「現状それでは違法なままで、憲法違反になりますね!!」

と、相手と同じように繰り返し言えば、

寧ろその言葉の印象は変わってくる。

いわば、

「説明する必要が無い!!」

は、黙秘権に成らず、

寧ろ違法性に対して反論できない言葉に成るのです。

 

こうした大衆に与える印象心理作戦が解らない立憲民主党は、

何を頑張ても評価されないだけの話なので、

少しは勉強してくれ!!

 

相手の言葉にイチイチ突っ込んで反応するのではなく、

説明が足りないのなら寧ろ

「現状それでは違法なままで、憲法違反になりますね!!」

と繰り返すことで、

聞いている人にも、

ただ政府の説明不足という意味では無く、

むしろ違法状態のままなんだという印象が強まり、

より追い込める話に成る訳です。

マスコミもそれを聞かされることで、

何故違法になるのかを説明していく議論が生じる分、

根拠があればそれだけ強くアピールできるのです。

 

繰り返しいいますが…

立憲民主党はこういう効果をちゃんと勉強しましょう。

それ出来なければ、国民の期待すら勝ち取れないだけです!!