「もともとこの人は、日本通ですが、外交手腕はダメで、」「日本としては、与し易い人物でした。」
文化大革命の末期、毛沢東の手に追えなくなった紅衛兵は、解散させられました。「若者たちは、貧しい農民から再教育を受ける必要がある」として、「都市に住む中学生・高校生は、農村に行って働かなければならない」と、毛沢東が指示を出しました。
1969( 昭和44 ) 年に高校を卒業した王氏は、8年間黒龍江省に下方されています。1977( 昭和52 ) 年、北京へ戻った氏は、北京第二外語学院アジア・アフリカ語学部に入学し、日本語を学びます。卒業後、中国外交部に入省し、1983( 昭和58 ) 年の胡耀邦総書記来日時の、スピーチを書くなど、日本関係の仕事を専門に与えられています。
これ以後の、氏の経歴を調べてみました。
1. 1989( 平成元 ) 年から、1994( 平成6 ) 年まで6年間、駐日中国大使館に参事官として配属。
2. 2004( 平成16 ) 年から、2007( 平成19 ) 年まで3年間、駐日中国大使
高橋洋一氏は、「日本としては、与し易い人物でした。」と簡単に片づけていますが、王氏は、中国が日本へ派遣した、日本専門の、第一級工作員(スパイ)ではなかったかと思います。私は、昨日ネットで見つけた次の情報に、強い関心を持ちました。
〈 日本駐在時のエピソード 〉
・駐在時には日本人とゴルフに興じるのが大好きで、王大使には「ゴルフ大使」という異名があった。
・日本語が堪能な王大使は、2007( 平成19 ) 年の帰任の際には、「多くの日本の友人たちと別れるのがつらい」、と話していた。
高橋氏は、ゴルフ嫌いの習近平氏の威光を恐れ、突然ゴルフをやめたイエスマンだと笑いますが、それは日本人をそう思わせる演技だと、私は思います。大使時代の3年間だけでなく、参事官として6年間日本にいた間も、ゴルフ好きの日本人に合わせ、政財界の人脈情報取集と、自民党政治家への懐柔工作に専念していたのではないでしょうか。
別れが辛いと語るほど、自民党の実力者と懇意になり、極秘情報を掴み、本国に伝え、豊富な工作資金を使っていた・・・と、私は氏の役割をこのように推測します。与し易いと考えるのは、間違いで、逆に、日本人を手玉に取る、有能な工作員でなかったか、と思います。もしも、過小評価できる面があるとすれば、胡耀邦時代と、胡氏失脚以後、習近平時代までの対日姿勢の豹変ぶりでしょう。「親日」から、「反日」、「敵視」と変わっています。
胡耀邦時代の中国は、日本との関係が一番良好な時でしたから、おそらく当時の王氏は本気で親日家だったと思われます。政権トップが、激しい反日になると、それに合わせて反日となり、その変貌の大きさを知る者から、酷評されたのでないかと思います。政権トップに逆らえば、命が危なくなる国ですから、変わり身の早さもありうることと理解します。弁護する気はありませんが、何を喋っても、身に危険のない日本とは違う国です。好き勝手に放言しても、ちゃんと生きている高橋氏には、理解できないのかも知れません。
以前、古賀誠氏について、ブログを書いたことがあります。古賀氏が幹事長をやめ、日本遺族会の会長をしていた頃だったと、思います。彼が王氏を訪ね、重要な動きをしていたことを思い出しました。