田中氏の著書でドイツの被告が22名と書かれ、別の情報では24名となっていました。確かめますと、審理中に死亡した2名が 全体数から除外されていることが分かりました。
戦犯として裁かれた人数のみを、以下紹介します。
日本 ドイツ
死 刑 7 名 12 名
終身刑 16 3
有期刑 2 4
病 死 2 2
無罪・訴追免除 1 [計 28名] 3 [計 24名]
[ 注 ] 総統アドルフ・ヒトラー、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッペルス、SS全国長官ハインリヒ・ヒムラーは自殺しており、起訴することが不可能でした。
ドイツとの比較を考えながら、氏の著書へ戻ります。
「昭和20年12月、モスクワに集まった、米、英、ソの3カ国会議で、」「ナチス・ドイツの残党同様、日本のA級戦犯を、国際軍事裁判にかけ、処断することを決定した。」
「これにより、マッカーサー元帥が、判事・検事の任免権、および減刑権を含む、最高指揮権を掌握し、裁判を統括することとなった。」
「昭和58年に来日した、オランダ代表判事だったレーリング博士によると、」「マッカーサーは東京裁判よりも、真珠湾をだまし討ちした東条一味に復讐することと、」「自分をフィリピンで敗北させ不名誉な敗走を余儀なくさせた、」「本間雅晴中将に対する復讐について熱心であったという。」
裁判の形は大掛かりで、厳粛に見えますが、実際には「復讐裁判」でしかなかったと、氏も私と同じ見方をしています。
「本間中将は、裁判開始後、わずか2ヶ月で処刑されている。」「この裁判の判事も検事も、マッカーサーの部下を指名するという、リンチ ( 私刑 ) にも等しい処刑であった。 」
これに関しては、中将夫人の富士子氏について逸話が残っています。フイリピン派遣軍総司令官だった本間中将は、フイリピンの軍事法廷で裁かれ、夫人が最終証人として出廷しました。和服姿の夫人は、次のように述べたと言われています。
「私は、東京からここへ参りました。」「私は今も、本間雅晴の妻であることを誇りに思っております。」
「私は夫本間に感謝しています。」「娘も、本間のような男に嫁がせたいと思っています。」「息子には、日本の忠臣であるお父さんのような人になれと教えます。」
「私が本間に関して証言することは、それだけです。」
通訳を介して夫人の言葉が伝えられると、法廷からはすすり泣きが聞こえ、米国検察官のなかにも涙を拭く者がいたと言われています。
「戦友眠る バタンの山を眺めつつ マニラの土となるもまたよし」
本間中将の辞世の句です。
次の氏の説明は多くの人が知っていますが、息子たちは知らないはずですから紹介しておきます。
「彼らがA級戦犯被告の28名を、起訴したのは昭和天皇の誕生日でした。」「昭和21年4月29日です。」「東条以下7名が絞首刑に処せられたのは、皇太子殿下 ( 今上陛下 ) の誕生日である、昭和23年12月23日だ。」「最も聖なる日にキリストを磔 (はりつけ ) の刑にした故事にならった、文字通りの復讐裁判であった。」
さらに氏が、東京裁判の根本的な欠陥を指摘します。これも多くの人が知っていますが、息子たちは知らないはずですから転記します。
「いまだかって聞いたこともない、平和に対する罪、人道に対する罪などという、」新しい法概念を打ち立てて、その法によって裁いたのが東京裁判である。」「文明国が等しく掲げている罪刑法定主義を無視した、法なき裁判を強行したのが東京裁判である。」
「清瀬弁護人は、この点をとらえ、法の不遡及は法治国家の鉄則であり、」「本条例は、これを犯すものであるとし7つの動議を掲げ、開廷早々法律論で挑んだ。」「これに対し裁判所は、理由を述べないまま動議を却下した。」
不都合な動議や資料は説明なしに却下するという、東京裁判のいびつさが、ここから始まります。結論ありきの裁判劇につきましては、氏の本に従い次回から紹介します。
はっこうと申します。
記事を読ませて頂きまして勉強になりました。
私はブログで「人物評伝」を書き始めましたが、次回は刑を逃れた有名な東大の思想家を取りあげようかと思っています。近いうちに書きます。
どうぞいらしてください。
今後ともよろしくお願いいたします。
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