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授業でいえない日本史 13話 中世 建武の新政~室町幕府の制度

2020-08-07 05:00:00 | 旧日本史2 中世
【建武の新政】
ここから非常に動きが細かいところにはいっていきます。

後醍醐天皇が京都に返り咲いて、オレは幕府なんか要らない、オレが昔のように日本をまとめて政治を行うんだ、という。年号を取って、これを建武の新政といいます。1334年からです。いったん幕府のない天皇による政治に戻ります。でもたった3年しか続きません。
まず後醍醐天皇がやったことは、摂政関白を廃止して、自分が直接命令を下す。こういう天皇直接の命令のことを綸旨(りんじ)という。その志はいいです。しかし、ぜんぶオレが目を通すといっても、書類を何百と毎日見ているうちに、仕事が追いつかない。だからふつうは3日で通っていた決済文書が、1週間も2週間もかかる。そういう事務の遅れがどんどん出てくる。


【新政の失敗】 そんな中で、後醍醐天皇の息子の護良親王と足利尊氏の仲が悪くなる。内部的にまとまらない。
そういうゴタゴタがあって、結局、武力を持っている足利尊氏が護良親王を、武士の本拠地である鎌倉に飛ばします。おまえは京都から追放だ、ということで。こうやって京都では足利尊氏中心に動き出す。

その間に、地方武士にも非常に不満が広がっている。武士に対して、褒美が少ないからです。貴族に対しては褒美が多い。武力で駆けつけたのは武士だ。貴族は何もしてない。何でオレたちに褒美が少ないのかと、武士は不満です。
とくに武家社会の習慣を無視した土地所有権について、後醍醐天皇の政府は慣例を破ることが多かった。


【新政の崩壊】 こういうゴタゴタが続いている最中、鎌倉で一つの事件が起こります。1335年です。中先代の乱といいます。これは北条時行という人が起こした乱です。その人は、幕府が滅んだときの最後の実力者、北条高時の息子です。
この人が、鎌倉幕府の御家人たちの残党を集めて、再度鎌倉を占領した。その鎌倉にいたのは、足利尊氏の弟です。彼が鎌倉の実機を握っている。足利直義(ただよし)といいます。この混乱の中で、この足利直義がやったことは、鎌倉に飛ばされている護良親王を殺すんです。ドサクサのなかで殺して、逃げます。
これを聞きつけた京都にいる兄の足利尊氏は、軍勢を集めて京都から一気に鎌倉に向かいます。もうこの時には、親分の後醍醐天皇のいうことなんか聞いてないです。
鎌倉の反乱は、たいしたことない。あっという間に鎮圧する。そのあと、本来は足利尊氏は、京都の後醍醐天皇の家来として京都にいるべきなのに、無断で鎌倉に行って、この反乱を鎮圧して、今は鎌倉にいる。
黙ってここに出向いて反乱を鎮圧して手柄をたてたから、京都に戻れば誉められるのかというと、命令違反で殺されるんです。自分が勝手に軍隊を率いたんだから。
後醍醐天皇のもとに、もともと足利尊氏がいた。そして反乱が起こったからといって、命令なしに、勝手に軍を動かしたら、自衛隊が勝手に反乱を起こしたのと変わらない。内閣総理大臣が軍隊を動かせと言わない限りは、防衛大臣が勝手に動かしたらいかんでしょう。勝手に軍隊を動かして、相手をつぶしたから褒美頂戴なんかと言えば、バカかと言われて殺されるんです。だから戻ったらいけないと、弟の足利直義は反対する。
結局足利尊氏は京都に戻らずに、京都に天皇が、鎌倉に足利尊氏がいる。ここで対立が成立です。敵になった。家来が敵になったということです。後醍醐天皇と足利尊氏か対立するということです。
尊氏は、自分の立場を明確にして、新政に対して反旗を翻したという立場を取る。あとは戦って勝てるかどうかです。約1年ばかりで軍勢を立て直して、1336年に足利尊氏は京都に攻め込む。しかし敵もさるもの、北畠顕家という武将に負ける。
負けて京都をとれなかったから、尊氏は、今度は朝廷勢力の強い西国に逃げるんです。ふつう、この東国にいた人間が敵陣の西国に逃げたら、ここで殺されてしまうのが当然なんです。

しかし、ここで、イヤ俺は足利につく、と言い始めたのが、九州北部の武士たちです。その中心が太宰府で、そこの武将を少弐氏という。佐賀の吉野ヶ里遺跡からちょっと西に数キロの所に目立たない墓がある。少弐氏の墓です。北部九州はこの少弐方です。このあとの室町時代、佐賀・長崎一帯を守護大名として治めたのはこの少弐氏です。
それに対して、後醍醐天皇方についたのが熊本県勢で、熊本の阿蘇氏や菊池氏です。阿蘇氏は阿蘇山の阿蘇です。九州で阿蘇氏と聞けば、どこの人かはみんな分かるよね。菊池氏は菊池渓谷の菊池です。
福岡県の東区の多々良浜というあたりで、福岡・佐賀の九州北部勢と熊本の九州中部勢が戦って、九州北部勢が勝った。これは足利方が勝ったということです。大番狂わせです。ここから足利方は勢力を盛り返していきます。

熊本県勢は負けた。そして引っ捕らえられる。佐賀の霊峰天山に登ると天山の山頂に墓があります。阿蘇惟直の墓です。阿蘇惟直の墓がなぜ天山にあるのか。殺される時に、せめて故郷の熊本の地が臨めるような山の頂に墓をつくってくれと、阿蘇惟直が頼んだからと言われます。こういう約束は大事です。死後の世界を恐れた人たちにとって、末期の約束を違えることは、祟りに襲われることと同じだからです。だから大事に祀って、今でも墓がある。
のちに佐賀の戦国大名になる竜造寺もこのとき少弐氏のもとで、足利方につきます。まだ小さな土豪ですが、この竜造寺氏の根拠地が今の佐賀市になります。今の佐賀城付近が竜造寺氏の拠点でした。まだ大きなお城はない時代です。ですから当然、城下町もありません。まだ熊本城も、福岡城もありません。だから熊本の町も、福岡の町もありません。ただ博多の町はあります。博多は港町で、城下町ではありません。今は町が大きくなって、福岡と博多が見分けがたくなっていますが、もともとは別の町です。地元では、福岡の町とはいいませんね。やっぱり福岡は「博多の町」です。そこに住む人は「博多んもん」です。

この九州で勢いを盛り返した足利尊氏は、再度京都に攻め上る。そのときに考えた。オレは、なぜこんなに苦労しているのか。天皇の権威というのは思った以上に強いな、と。
でも、うまく天皇家は二つにわかれているじゃないか。大覚寺統と持明院統に。後醍醐天皇は大覚寺統だ。それならもう一つ持明院統がある。これをいただこう、と。
京に攻め上る間に、足利尊氏は持明院統から別の天皇を立てます。そして天皇がこっちにもいるぞという形を整える。これが政治なんですね。この天皇を光明天皇という。天皇がここで二人になった。一人は京都の後醍醐天皇、もう一つはここで足利尊氏が立てた光明天皇です。

この時に、後醍醐天皇に死ぬまでつき従った関西の武士がいます。これが楠木正成です。今も江戸城の前の広場に銅像が建っている楠木正成です。最後まで後醍醐天皇に付き従いますが、1336年の湊川の戦いで足利尊氏方と戦い、戦死します。
戦ったのは足利尊氏です。そして足利尊氏方についたのが光明天皇です。では今の天皇家はどちらの子孫なのか。この光明天皇の子孫なのです。とうことは、楠木正成は敵なんですか、味方なんですか。今の天皇家にとっては。敵なんですよ。
敵将であった楠木正成の像が、なぜ今も皇居前にあるのか。皇居前といえば日本を象徴するような場所です。そこに現天皇家と戦って戦死した武将の銅像が建っている。普通そんな場所に、戦って死んだ敵将の像など建てないのです。これは不思議なことです。

その後、足利尊氏は、京都を制圧します。そして京都に光明天皇を立てます。
後醍醐天皇は、ここで死んでしまうのかというと、粘り強く逃げるんです。南に。京の南には、むかしの平城京がある。さらに南に飛鳥地方がある。そこから山間部に入って、南の吉野まで逃げて、そこに朝廷を構えます。さらにその南の山深い熊野は、九州の人はあまり知らないけど、関西の人間にとっては、関西地帯の信仰の地なんです。ものすごく神聖な場所として信仰を集めている場所です。その信仰の強さと、天皇の権威が重なるような場所です。むかし院政時代には、上皇たちが何度も何度も熊野詣でをした場所です。
だから天皇がいる場所は、北の京都と南の吉野の2つになります。天皇が北の天皇と南の天皇の2つに分裂した形になる。だから京都の朝廷が北朝で、吉野の朝廷が南朝です。

この時代を南北朝時代といいます。この時代以降、60年ぐらい分裂が続きます。後醍醐天皇は南朝方の天皇となる。さっきも言ったけど、今の天皇はどっち側の天皇の子孫かというと、後醍醐天皇側ではなくて、北朝側の光明天皇の子孫です。でも歴史的には、後醍醐天皇のほうがどうも正統性が高いということになっています。北朝は、足利尊氏から、ちょっと天皇になってくれと頼まれてなっただけ。歴史的には、南朝の方が正統だという意見が強い。明治天皇も北朝の天皇です。そうすると明治国家としては都合が悪い。だから、明治時代になると政治問題になったりするんです。

このことは戦後にまで尾を引いていて、原爆が落ちて日本がアメリカに負けたあとの戦後の混乱期に、オレは後醍醐天皇の子孫だ、オレの何十代か前の祖先は後醍醐天皇だ、と言って、熊沢寛道という人が、オレを天皇にしろ、と名乗りを上げたことがありました。これはちょっとしたブームになった。あだ名は熊沢天皇です。その後どうなったか、わからないけれども、こういう人が現れたりする。
南朝の問題は、日本の歴史の中で時々、忘れた頃に噴き出してきます。



【室町幕府の成立】
戦いの勝敗は足利方に有利になった。足利尊氏は京都に入って、新しい幕府をつくっていく。室町幕府の成立です。
この幕府は京都です。鎌倉幕府は鎌倉です。室町幕府は京都です。では室町とはなにか、京都の町名です。探そうと思えば今でもある。室町町というのが。行ってきたけれども、看板も何もなかった。私が行ったのは、室町幕府の跡という、石碑が立っていたたけです。その横の家は床屋さんになっていた。昔はそこに幕府があったんです。
天皇の血筋をいうと、まず後醍醐天皇方が南朝です。これは天皇家が二つに分裂しているその血筋からいうと、大覚寺統といった。
もう一つは足利尊氏方、これは天皇の権威には勝てないからといって、足利尊氏が天皇を立てた。光明天皇を擁立した。この光明天皇というのは血筋からいうと持明院統です。
日本に、自分が正統だという天皇が二人並び立ちます。この時代を南北朝時代といいます。その混乱を南北朝の動乱といいます。まだ争いは続きます。このあと約60年ぐらい続いていく。こういう二人の天皇がいて、日本が分裂していくなかで、足利尊氏は京都に独自に武家政権をつくっていく。これが室町幕府です。

できたのが実質的に1336年といわれる。この時に、なぜこれが幕府になるかというと、法律を決まりをつくったんです。その決まりのことを建武式目といいます。
幕府の基本方針です。実質的な室町幕府の誕生です。
武家政権の法律は鎌倉時代は何だったか。貞永式目があった。ではこの貞永式目は廃止されたのかというと、廃止されません。そのまま受け継ぎます。変更点を書いたものが、この建武式目です。
まず幕府の場所が違う。守護の配置もちがう。そういうのをきちんと書いていく。そしてこれを守れという。そして幕府を開くためには、幕府の将軍というのは、ナンバーワンじゃなかった。家来だったですね。誰の家来ですか。天皇の家来です。将軍の正式名称が何であったか。これが征夷大将軍です。


【征夷大将軍就任】 1338年に、足利尊氏は征夷大将軍に任命される。これは誰からか。後醍醐天皇は敵ですよ。北朝の天皇の光明天皇からです。後醍醐天皇は南朝です。
ここで、天皇家は分裂していても、結局、鎌倉幕府と同じ構造が続く。征夷大将軍が朝廷の家臣であるということは変わらない。日本の政治は、二重三角形であって、一番上に天皇がいる。そして将軍というのは天皇の家来である。天皇と将軍の関係はこうです。




この天皇の家来の征夷大将軍として武家社会を作ってるのが室町幕府です。だから貴族もまだいるんです。
小さくなった天皇の三角形、これは公家社会です。お公家さんというのが貴族です。
その後60年間の戦いはどうなるか。基本的には南朝方、つまり後醍醐天皇方が劣勢です。部が悪い。ただその中で頑張っていた人が、北畠親房です。
この人はパッと見て、この戦いはどうも北朝の天皇よりも、南朝の後醍醐天皇の方が理屈が通っていると直感する。南朝の天皇の方が正しい、と。そしてそれが政治的な武器になることも知っています。この天皇の正しさを解いて説明できれば、これが政治的な力になって、南朝の勝利に結びつく。こういうねらいで天皇の歴史を書く。この本は日本では一流の天皇史です。書いたのが神皇正統記という。南朝の天皇の正しさを歴史的に主張した本です。
でも南朝勢力が強いところは、九州だけです。これは懐良親王という後醍醐天皇の息子の奮戦によります。

全体としては、北朝優勢なんだけれども、なぜすぐに北朝が勝たなかったのかというと、当初仲がよかった兄の足利尊氏と弟の足利直義が、このあと喧嘩しだすんです。この兄弟喧嘩の原因は何かというと、尊氏と息子の親子喧嘩が絡んでいる。これはよくある。親父と息子が仲が悪い。息子は親父よりも、自分を育ててくれた叔父さんの方と気が合う。こういうふうに、親子、兄弟がらみで、北朝が割れていくんですね。
兄は足利尊氏。それから弟は足利直義です。さっきも出てきた。政治的な力量からいうと、足利尊氏は戦さ好きなんです。一気にやってしまおうとする。いわゆる急進派です。しかし弟の足利直義は熟慮型です。世の中の動きなどは、こっちのほうが良く知っている。動くべきとき、動くべきでないとき、軍事行動をとるべき時、そのチャンス、一瞬のスキを冷静に判断していく。そしてチャンスが来るまで待つという漸進派です。そういう性格の違いもあって、結局南朝一つに対して、北朝が二つに分裂する。こういうのをこれ三つ巴(どもえ)の戦いという。これになったときには勝負つかない。
北朝がそれぞれ仲が悪いと、南朝が負けそうになると、北朝の一方と手を組む。またこっらが強くなりすぎると、こう手を組む。いくらやっても勝負がつかない。三つ巴というのは。これで長引く。敵とも手を組む。もう収拾がつかない。まだ南北朝の動乱は長々と続きます。



【室町幕府の制度】
そういう三つ巴の戦いが続くなかで、着々と室町幕府の組織は整えられていく。
どうにか組織が整うのが、初代、2代ときて、3代目の孫の世代です。もう幕府の成立から50年ぐらい過ぎた。


【足利義満】 3代将軍が足利義満です。一番有名なのは何を作ったからか。金閣ですね。この人が、さっき言った京都の室町というところに、幕府を引っ越したんですよ。それまではちょっと離れたところだった。高倉というところにあった。
これは実は、今の京都御所の真ん前なんです。京都御所、天皇がいるところの真ん前にドカンと御殿を作る。どっちが強いかといわんばかりに。どっちが立派な家かといわんばかりに。これを花の御所という。
今は横が床屋さんになって、石碑1本しか立ってないけれども、その何百年か前には、壮大な御殿があったところです。だから今は何も残ってはいません。



【政治組織】
【管領】
 この将軍を補佐する役割も出てくる。鎌倉時代にはこれを執権といっていたけれども、管領という。
おおまかなところ、ポイントをその下に書くと、将軍、一番左のほうが偉いんですよ。将軍が一番えらい。それを補佐するのが管領です。

あとは鎌倉幕府と一緒です。鎌倉幕府を受け継ぎます。この組織がいっしょだというのは、当然だとは思わないでください。次の幕府は江戸幕府ですが、徳川家康は全く受け継がない。
そこが時代の切れ目です。鎌倉幕府と室町幕府はいっしょです。考え方は。しかし、室町幕府と江戸幕府は違う。組織から違う。発想が違う。組織が違うということは、発想が違うと言うことです。
侍所政所問注所、この三大組織は同じです。

力をもつのは、将軍の補佐の管領です。これは一人なんだけれども、選ばれるのは三つの家柄からです。だから三管領という。

【四職】 侍所の長官、これも四つの家柄から選ばれる。この家がものすごく力をもっている。侍所の長官を四職という。
将軍は足利家です。足利家の次に力を持っているのが、三管領と四職です。あわせて8つの家柄がものすごく力をもつ。

三管領の代表格は細川です。君たちは、知らないかも知れないけれども、20年前、この細川家から日本の総理大臣が出ましたね。細川家というのは、今もあります。細川護熙首相です。まだ存命ですよ。
次は志波氏、畠山氏。全部足利氏の親戚です。つまり親戚で固めたのです。
次の四職というのは、京極氏、山名氏、赤松氏、一色氏の四つです。これが中央制度です。これはあくまでも京都での職です。

【鎌倉府】 しかし武士の本場は関東、東日本なんです。だから、ここをおろそかにはできない、東日本が本場であれば、ここに第二の幕府ともいうべき役所を置く。これを鎌倉府といいます。この組織は京都の幕府とほぼ一緒です。それをちょっと小さくしただけです。新幹線も車もない時代に、こことの意見が幕府と違うことになったときが大変です。地方に力を持たせると、こういったときが、大変です。
その鎌倉府の長官を、鎌倉公方という。公方(くぼう)といえば、ふつうは将軍を指す言い方です。力が将軍といっしょなんです。関東武士にとっては。
この鎌倉公方になるのは足利尊氏を息子の一族です。京に将軍を支える管領がいたように、鎌倉公方を支える補佐役を関東管領といいます。
これになる家も決まってる。これが上杉です。このあと300年後、この上杉家は、何になって出てくるか。上杉謙信と戦国大名を聞いたことないですか。上杉謙信が出るのは、この上杉氏からです。

【守護・地頭】 諸国には、鎌倉時代と同じ、守護それから地頭を置く。守護地頭の設置です。これは同じですよ。

【守護大名】 そして京都近辺は親戚で固める。親戚のことを一門という。
新幹線や車がないときに、さぞかし京都に行くのは不便だったろうということで、守護は鎌倉時代と違って、都の政治の中に入っていくんです。守護は地方にいないんです。守護は京都にいて、権力者としていろいろ中央の政治的なことをやっていく。では地方はどうなるか、その代わりの者が支配している。彼らを守護代という。守護の代わりという意味です。
しかしこうなると、いくら偉くても顔も見たことのないような殿様よりも、身分はワンランク低くても、毎日毎日顔を合わせて、いっしょに仕事している上司の方が親しみもわくし、人間的なつきあいも深まっていく。するとだんだんと守護代が国を乗っ取っていくようになる。そして家来たちは守護代にはついていくようになる。
この室町幕府というのは、権力自体はそんなに強くない。ただ守護を京都に集めてまとまっている。そういう守護大名が連合しているからもっている。
ということは、この守護の力が失われて、地方の実権が守護代にうつれば、もう日本はバラバラになる。このバラバラの時代のことを何というか。これを戦国時代というんです。
政治にはお金がかかる。室町幕府は自分の土地を持っている。そこからの年貢収入に限られている。この土地を御料所という。全国が将軍の土地になったりはしない。将軍の土地だけで、全国の政治を動かさないといけない。でもこれが十分じゃないんですね。貧乏なんです。貧乏幕府なんです。だから将軍の力も弱い。

【奉公衆】 では戦さをするときはどうするか。これもまず将軍の軍隊を京都に抱えている。彼らを奉公衆という。ちょっとした小競り合いの時には、これで済ます。そして奉公衆に将軍の土地の管理も任せている。将軍の御料所の管理をさせる。
ただ大きくなった守護たちが将軍を裏切った時、この幕府は崩壊していく。
終わります。

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