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「授業でいえない世界史」 17話 中世ヨーロッパ ビザンツ帝国~百年戦争

2019-02-10 04:00:00 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【ビザンツ帝国】

 だいたいヨーロッパの1000年ごろまで行きました。ここ2~3時間で説明したた地域は、アルプス山脈の北側の、今でいうフランス、ドイツです。しかしこの地域は田舎です。ヨーロッパで進んだところはもっと東のほうです。そこに東ローマ帝国があります。
 西側は、以前に西ローマ帝国があったけれど、これは滅んだんです。滅んだから、田舎のゲルマン人が侵入してあちこちに国をつくっては滅んでいった。そのなかで生き残ったのがフランク王国です。
 中心は東方の東ローマ帝国です。ただこれが紛らわしいのは、ローマを支配していないのに東ローマ帝国というのはおかしいじゃないかということで、この時の首都はコンスタンティノープルといいますが、それ以前はビザンティウムと言ったから、東ローマ帝国ではなくビザンツ帝国と名前を変えたんです。
 しかし本当の世界の中心はどこかというと、もっと東の今のイラクとかイランあたりにはイスラーム帝国がある。イスラーム文化圏がある。ヨーロッパよりこっちが栄えてるんです。

 キリスト教の開祖のキリストさんはローマ人だったんですか。キリストさんはどこで生まれたんですか。エルサレムですよ。今でもよく爆弾が飛んでいる。
 ここをヨーロッパが征服するぞと言って遠征に出かける。結局200年もかけて遠征して、結局失敗するんだけれども、この過程で彼らは、ここは進んでいる、ここはすごいじゃないか、と気づく。イスラーム社会の文化に接触して、オレは田舎者だったんだ、と気づくわけです。
 こういう文化をヨーロッパに運んで来るのは商人なんです。商人は地中海を船で行き来している。それがイスラーム商人ビザンツ商人です。

 そのヨーロッパはさらに田舎の北のノルマン人という人たちが荒らし回っている、というところまで言いました。これが900年代~1000年代です。10Cから11Cです。

 ではその東の東ローマ帝国はどうなるか。さっき言ったようにビザンツ帝国と名前が変わります。これは西ローマ帝国が476年に滅んだあとも、約1000年間存続する。1453年まであるんです。つまりこのあともずっとある。この時のコンスタンティノープルは、今は名前を変えてイスタンブールといいます。1000年の都です。非常に有名な都市です。


【ユスティニアヌス帝】 また500年もどります。そのビザンツ帝国が支配した地域はどうか。西ローマ帝国が滅んだあとの6世紀、もう1回大帝国を奪い取るぞ、復活するぞ、という皇帝が出てくる。

 これがユスティニアヌス帝です。527年から565年まで約40年。政治のこと、領土のことは、次に言いますけれども、ここで問題になるのは、日本人が不得意なキリスト教会との関係です。
 ビザンツ帝国も西ローマ帝国も、キリスト教国であるということには変わりがなかった。しかし国が分裂し、そのあと西ローマ帝国は滅亡した。

 では生き残ったビザンツ皇帝はというと、この人は会社でいえば本店の社長だと思ってください。この社長はキリスト教のお坊さんの一番偉い人だって任命できる。しかしそのキリスト教会が今2つに分裂している。西の教会はローマ教会です。そのトップをローマ教皇といいます。

 もう一方の東のビザンツ総主教というのが、コンスタンティノープルにあるキリスト教会のトップです。そしてビザンツ皇帝はその両方の任命権を持っている。いってみれば、社長が東京支店と大阪支店の支店長を任命する権限をもっているようなものです。
 しかし問題は西のローマ教会です。オレは言うこと聞きたくない、独自の動きをしたいということで、東フランク王に神聖ローマ皇帝の王冠をかぶせて、政治的に結びついた、という話を前回したんです。ローマ教会から見れば、ビザンツ皇帝の支配下から脱して、独自に政治権力を持ちたいんです。


【皇帝教皇主義】 しかしビザンツ皇帝から見れば、俺は西のローマ教会に対しても命令権を持っているんだ、そこに命令を出すのはオレだ、と言いたい。これが皇帝教皇主義です。
 なぜなら、オレは東ローマ帝国の皇帝、ビザンツ皇帝だから、ローマ皇帝の権限を受け継ぐのはオレだ、西ローマ帝国は滅んだんだから、その権限を受け継ぐのもオレだ、だからオレがローマ教会に命令する、と考えた。

 だからローマ帝国を復活しようと、領土を広げていくわけです。それで大征服活動をしていきます。

 先に領土からいきます。このあとのビザンツ帝国は、いったん小さくなったけれども、ユスティニアヌス帝の時代の6世紀には多くの領土を復活しました。ギリシャを含めてイタリアまで。さらに広大な領土を治めた。ほぼ地中海を覆うまで。しかしこれは長く続かなかった。王様の個人的な勢いでやったからです。

 200年経って8世紀になると、本拠地以外にはギリシアの一部、それからイタリアの南の一部を領有するだけになります。
 さらに200年経って、10世紀頃にはますます減る。
 そして滅亡する14世紀になると、コンスタンティノープルの周辺だけになる。

 それでも1000年間モツんだから大したものです。日本人には意外と知られていませんが、こういうローマ帝国が繁栄していたんです。

 だからビザンツ皇帝は、ローマ教会に対して、俺の命令を聞け、ということをいろいろやっていきます。


【聖像崇拝禁止令】 それが、ビザンツ教会が726年に出した聖像崇拝禁止令です。

 神様は人間の目ではとらえられない、捉えられないものをなぜ彫るのか、そんなものを拝んだらダメだ、像をつくったらダメだ、キリストの像を拝ませるな、それは神を冒涜することだ、これはモーセの時代から決まっていることだ、と言うんです。

 これでローマ教会と対立する。ローマ教会はそんなこと言われたら困ると言う。困る理由は何か。それはあんたたちのいるビザンツ帝国は文化水準が高いから、字を読める者もけっこういて、頭がいい者もいるから理屈で説明してわかるけど、オレたちが教えているのは、あのゲルマン人だぞ、フランク王国だぞ、田舎の人間だぞ。こういう人間に理屈で説明して、キリスト教の難しい教えが理解できると思うか。何でもいいから、きれいな像を見せて拝ませる。これが一番てっとりばやいじゃないか。あんたの言うとおりにしたら、とても布教などできない。キリスト教の教えは広まらない。

 そう言ってローマ教会は反発するんです。それでビザンツ皇帝とローマ教皇は仲が悪くなる。


【東西教会分裂】 この聖像問題がネックになって、もともとビザンツ皇帝の支店みたいなものだったローマ教会が、独立して別会社になる。決定的なのが、1054年東西教会の分裂です。

 ローマにある西のローマ教会と、コンスタンティノープルにある東のギリシア正教会が正式に分裂する。これでキリスト教会は2つになったんです。
 今のキリスト教は3つある。1つはローマ・カトリック教会、2つ目はギリシア正教会、そして3つ目はこの500年後に出てくるのがプロテスタントという新しい宗派です。
 我々日本人に一番なじみの薄いキリスト教は、実はこのギリシア正教会です。今はその代表格がロシアです。ロシアはギリシア正教会を受け入れたキリスト教国です。
 ロシアは今やっているビザンツ帝国とは全然場所が違うじゃないか、と思うかも知れないけれど、1000年後にこのビザンツ帝国が滅ぶときに、ビザンツ皇帝の姪を嫁に迎えて、オレがその後継者だと名乗るんです。それはあとで触れます。

 この東西教会の分離の何十年かあとには、西ヨーロッパが、胸に十字架を縫い付けて征服活動をする。目指すはここエルサレムです。キリスト教の聖地、キリストが生まれたところを征服しに行く。

 この軍隊を十字軍といいます。さっき言ったように200年間かけて、何回も何回も行ったあげくに失敗する。しかしその間に、オレたち田舎者だったと気づくんです。進んだものがあるんだ。オレは知らなかっただけなんだ。早くマネして取り入れようとなります。

 そのビザンツ帝国は1453年に滅ぼされる。東隣に隣接するイスラーム教の国、オスマン帝国によってです。

 ビザンツ帝国が滅亡するとそれと同時に、残されたギリシア正教会を受け継ぐのはオレだと名乗り出たのがモスクワ大公国です。これがのちのロシアになります。

 十字軍で西ヨーロッパが征服しに行ったところはエルサレムです。ではエルサレムは、この時どうなっているか。イスラーム世界になっています。キリスト教の聖地をイスラーム教徒が支配している。

 実際には、その中にキリスト教徒もいっぱいいて、大きな混乱はなかく平和は保たれていたんだけれども、ここで本格的に血が流れ出すのはこの十字軍からです。


【封建社会】 ではこの頃の西ヨーロッパはというと、もともと未開の土地で、赤ずきんちゃんがいてオオカミがいる。そういう森に覆われたところを、ちょこちょこ開墾しだしていった。森の木を切り倒していった。

 だんだん農地が広がっていき、それに伴って食糧が増産して、田舎のヨーロッパがじわじわと・・・こういうのは目立たないけどボディーブローのように効きます・・・じわじわと力をつけて行った。

 そういった中で、田舎の親分さんは自分の土地を広げていくと、だんだんと王様の命令を聞かなくなる。王に税金を払わない。王様の役人が農地を検査しに行くと、帰れと追い返す。オレは検査を頼んでいないぞ、と追い返す。こうなると国の中に別の独立国ができたようなもので、こういう領主ばかりになると王様が困りだす。

 田舎の親分さんは王様の命令に対して、王様がなんだ、あさっておいで、と役人を追い返すんです。自分の領地に立ち入らせない。
 こういうのを不輸不入権という。不輸というのは税金払わない、輸送しないということです。不入というのは検査官を立ち入らせない、追い返すということです。
 こうやって田舎の親分さんの私有地が成立していく。こういう領主の私有地のことを「荘園」といいます。


【ローマ教皇の隆盛】 ではローマ教会のことに行きます。西のキリスト教会のことです。さっきビザンツ総主教のあるビザンツ帝国のことを言いました。

 1054年に正式に東西教会が正式に分裂したということは、ギリシア正教会のところで言いましたけれども、それは同時に西のローマ教会が正式に独立したということです。

 これがローマ・カトリック教会です。俗にカトリックをはずして、ローマ教会という。宗派でいうとカトリックです。こちらも自分の力を上げようと必死です。

 田舎の親分さんも、王に税金を払わなくていいように必死です。
 王様も、このままでは誰もオレの命令を聞かなくなる、自分の力を上げるのに必死です。

 まず対立するのは、この王様とローマ教皇です。

 田舎の西ヨーロッパでの中心はドイツです。ただドイツとはいわない。神聖ローマ帝国という。
 ローマを支配してもないのに、神聖ローマ帝国と名乗っている。それはおかしいじゃないか、と言われる。だから、そのうちにローマ支配をしますから、ローマ支配をしますから、とずっと政策の中心は、ローマ、ローマでいく。でも結局うまくいかずにローマを支配することはできません。

 その皇帝をハインリヒ4世という。11世紀のドイツの王様です。というより正式には神聖ローマ皇帝です。王にはいろいろランクがあって、王様のワンランク上が皇帝です。王様より偉いんです。


【カノッサの屈辱】 それに対して、ローマ教会のボスは教皇という。名前はグレゴリウス7世という。この2人がケンカする。

 なぜケンカするかというと、帝国の領内にある教会のお坊さんを誰が任命するかという問題です。ローマ教皇は、教会のことは当然オレが任命すると言う。それに対して神聖ローマ皇帝は、いや教会は土地をもっている領主だから、オレの子分だ、だからオレが任命するんだと言う。
 その任命権をめぐって、お互い争って対立する。


 そしたらローマ教皇が神聖ローマ皇帝に対して、それならおまえは破門だと言う。破門というのは、キリスト教徒と認めないということです。これは我々日本人にはあんまりピンと来ないけど、キリスト教社会の中でキリスト教徒ではないと名指しされた人間は、ほとんど人間ではないと言われたのと同じです。

 人間ではない者を、皇帝の子分の大名たちが、皇帝として拝めるわけがない。皇帝にとってローマ教皇からの破門はそれだけ恐ろしいものです。
 破門されて、おまえはキリスト教徒ではない、だからキリスト教の仲間に入れないと言われたら、ますますこの皇帝は孤立していく。そうすると子分の領主が誰もついてこなくなる。

 こういう形で、神聖ローマ皇帝に対して、ローマ教皇と地方の領主であるドイツ諸侯が手を組むわけです。この皇帝の子分であるドイツ諸侯は、もし破門が解除されなければ、お前を皇帝とは認めないと決定する。皇帝はこれが怖くて怖くて、もうローマ教皇に謝罪するしかない。

 孤立した皇帝は謝りに行った。謝った場所がイタリア北部にあるカノッサというところです。このローマ教皇がたまたまそこに滞在していたんですね。雪降る中にわざわざ出向いて行って、謝りますからどうぞ中に入れてください、と言う。
 しかしローマ教皇は、オレは会わないという。皇帝は三日三晩、裸足で立ち尽くした。そして四日目に、そこまで言うなら仕方ない、会ってやろう、となった。そこで皇帝は教皇に頭を下げた。皇帝がです。それでやっと破門は取り消しになった。それでどうにか皇帝の座を維持できた。
 これがカノッサの屈辱です。このことを皇帝のハインリヒ4世は一生忘れない。1077年です。
 こうやって皇帝と教皇を比べると、日本人の感覚では皇帝が偉く見えるんだけれど、ヨーロッパでは教皇が強い。キリスト教のボスが皇帝よりも強い。そのことを天下に知らしめることになった。

 このローマ教皇の絶頂期が、このあと12世紀、1100年代のインノケンティウス3世の時です。何世と言っても王様じゃない。ローマ教会のボスです。彼のときが全盛です。

 「皇帝は月、教皇は太陽」。オレが太陽だ、皇帝は月のようなもんだ、俺がいなければあいつは輝けない、と彼は言ったといいます。 


【十字軍】 その間、さっき言った西ヨーロッパという田舎は、エルサレムを征服しに行く。これを十字軍といいます。エルサレムはイエス・キリストさんが生まれた所、キリスト教の聖地なんだけれども、そこを今イスラーム教徒が支配している。それを奪い返しに行くのです。何のためか。キリストの栄光のため、神の国を作るため。それで人を殺すんです。さんざん殺します。

 殺し方はキリスト教徒のほうがひどい。イスラーム教徒はそこまでもムチャクチャに人を殺さないけど、キリスト教徒は無残に殺します。
 コロンブスがアメリカ大陸を発見した後などは、アメリカ大陸の現地人は悲惨ですよ。アジアも悲惨ですよ。日本はすんでのところで植民地にならなかったけれども。

 十字軍の目的はキリスト教にとっての聖地、エルサレムを取り戻すため。

 この時には・・・これもあとで言うけど・・・セルジューク朝というイスラーム帝国が攻めて来ている。
 このエルサレムはイエス・キリストの生まれた場所です。イエス・キリストはローマ人じゃない。だからここを取り戻しに行った。この十字軍をやるぞと言ったのが、1095年です。
 キリスト教会の会議のことを、なぜか公会議という。これもまたわかりにくい。公の会議とは何かな、国会かな。いやキリスト教の会議です。
 これはローマ教会のボス、つまりローマ教皇が招集するんです。会議を開くぞ、キリスト教徒は集まれと言う。こう呼びかけたのがローマ教皇ウルバヌス2世です。キリスト教徒が会議を開いて何を決定したか。戦争するぞ、ということを決定する。
 そして大名たちや王たちに、戦争にいこうと呼びかける。十字架を付けて。これが神の栄光なんだと言って。どんどん殺していく。十字軍というのは征服軍です。これを命令したのは皇帝じゃない。まして王でもない。キリスト教会の教皇です。皇帝よりもオレが上なんだ、オレに命令する権利があるんだと言って、戦争さえも行っていく。神様のためだと言って、戦争を正当化するんです。一神教世界ではこういう戦争の正当化がよく起こります。
 これが200年も続きます、10回近く、何回も何回も、何十年に一度ずつやっていくんです。しかしその結果はというと、エルサレム回復には失敗します。


【商業の発達】 ただこの間、さっき言ったように、オレたちは田舎者だ、もっと進んだ世界があった、と気づく。

 まずそこに商人が乗り込んでいく。もっとも利益を得たのが北イタリア商人です。なかでもヴェネチア商人などはがっぽり儲ける。

※ イスラーム商人が支配する地中海世界では、十字軍運動を契機にイタリア諸都市の商業活動が活発になった。商業とともに起こってきたイタリア金融業の成長には、手形、小切手などを普通に使っていたイスラーム商人の影響が大きい。(宮崎正勝 お金の世界史)

 商工業が発達していく。商売人たちが力を蓄え仲間を組む。これをギルドといいます。今でいう商工会議所みたいなもの、商人の連合会みたいなものです。

 そして征服活動があっている間に、田舎のヨーロッパにお金が入ってくる。お金は人間の発明です。お金が流通する社会というのは、かなり高度な文明です。そこでしかこれは成り立たない。ヨーロッパはやっとこの12世紀ぐらいに、地方にもお金が回りだした。

 ここまで200年かかる。11世紀から13世紀まで200年です。何回も、何回も、十字軍は7回もやる。個別にはもう見ません。200年間これが繰り返し続くんだということです。その200年の間にヨーロッパが発展しだす。戦争によって多くの人は苦しみますけど、その一方で富を蓄える人もいます。彼らが蓄えた富によって、貨幣経済が発達しだす。

※ 1215年の第4回ラテラン公会議では、支払い期日を守らない債務者によって債権者の損害が発生した場合、利子が認められるとされました。これが教会法の抜け穴となります。・・・人々は資金の貸し付け時に、極端に短い返済期限を設定し、それ以降の期間についての返済の遅延を延滞利息として計算する、という方法をとりました。・・・このような手法を駆使し、銀行業で華々しく成功する事業家一族が次々に登場します。(宇山卓栄 経済)


【農民の自立】 その一方で地方の封建領主は潰れていきます。そうすると・・・それまで田舎の西ヨーロッパの農民は農奴といってほとんど奴隷と変わらなかったんですよ・・・こうやって封建領主が力を失うと、この農民たちが力を持ちだす。勤勉に働くとお金を貯められる。お金を貯めて自分の土地を買ったら農奴身分から解放される。


【ドイツ】 では個別に見ていくと、田舎のヨーロッパの中心はドイツであった。正式には神聖ローマ帝国といいます。しかしここの皇帝とは名ばかりです。それほど力はない。なにせカノッサの屈辱で、皇帝が裸足になって三日三晩、ごめんなさいと言い続けないと、王でいられなかったような皇帝だから。


 その300年ぐらい後には、皇帝を出す家は、ほぼ家柄が決まっていく。これがハプスブルク家です。

 ハプスブルク家の王が、だいたい親・子・孫とずっと続いていく。なんでこうなったか。強かったからじゃない。一番力がなくて無害だったからです。わざと弱い王を立てた。
 しかしこのあとハプスブルク家は、300年の間にじわじわと力をつけていく。あれよあれよという間に。このあとも出てきます。ドイツはハプスブルク家です。神聖ローマ皇帝はハプスブルク家という。



【イギリス】
 今度はイギリスです。9世紀以降ノルマン人による侵略が続き、1066年に、すでにフランスに領土を確保していたフランス貴族となっていたノルマンディー公ウィリアムによって征服されます。この征服をノルマン征服といい、そのイギリス王朝をノルマン朝といいます。これはすでに言いました。

 ノルマン朝以後、13世紀、1200年代のジョン王という人は、まずフランスとケンカします。当時イギリスはフランスの中に領地を持っていて、イギリス王はフランス王の家臣であるという関係だった。


【マグナ・カルタ】 ジョン王はフランスとケンカして、その領地を全部奪われてしまう。それに家来たちは腹を立てて、おまえの言うことなど聞けるか、逆に王に対して命令する。これだけのことを守れと。家来がですよ。家来が王様に要求する。この要求がマグナ・カルタといいます。1215年のことです。

 マグナというのは大きいという意味です。カルタは約束です。これを漢字で書くと大憲章といいます。大憲章の憲は、憲法の憲なんです。憲法のルーツはここにあります。
 憲法とはバカな王に対して、バカな事をするなよと、家来が王に要求したものです。上から下に命令するんじゃないです。逆に下から上に要求したんです。これが憲法です。だからこういうことするな、こういうことするときには、会議を開いて国民の意見を聞いて、その承認を受けろ、そういう要求をしている。
 日本人の多くは、日本国憲法を「上が下に」与えたものだと思っています。自分たちが守らなければならないものだと。これ違いますよね。憲法は「下が上に」要求したものです。権力はよく腐敗します。そうならないように守らなければならないことをしっかり書いて上に要求したものです。憲法を守らなければならないのはまずは国なのです。国は憲法の抜け道を常に探します。憲法九条の問題はまさにそうですね。

 税金を上げる時には、オレたちの了解をもらえ、勝手にするな、これがマグナ・カルタです。これが憲法の原型になっていく。貴族が王に勝手に税金あげるなという。まずはお金のことです。

 だからこの国は基本的にお金がない。勝手に税金を上げられないからです。ではなんで稼ぐか。これが海賊なんです。ノルマン人自体が海賊だから海賊行為はお手のものです。

 海賊で何をするか、海でどんどんこのあと植民地をとる。海賊は植民地をつくる。だからころの小さな島国はつい100年前まで、世界最大の植民地帝国を築いていた。大英帝国です。グレートブリテンです。アメリカの前の世界の覇権国はイギリスです。

 もう一つは植民地の奴隷で稼ぐ。アフリカ人をアメリカに連れて行って売り飛ばす。1人あたり1000万ぐらいかな。

 奴隷はロボットと同じぐらい高価です。どんな精巧なロボットでも、コーヒー沸かせと言ってもできない。これが人間の奴隷だったらやってくれる。だから奴隷はものすごく高価です。だから高価で売り渡す。人間が人間を売り渡すんです。
 先のことを言うと、これでお金を儲けて、そのお金で産業革命が起こります。奴隷貿易で稼ぐのです。あこぎな話です。

 話が先に行きすぎました。もとに戻します。
 この時の貴族の要求は、議会を開けということです。とにかく王に、議会だ、議会だ、俺たちの意見を聞け、と言う。議会は、王が下の者の意見を聞く場です。


【百年戦争】 しかしイギリスはフランスとの仲が悪い。

 そこでフランスがカペー朝からヴァロア朝に王家が変わった際に、王位継承をめぐって戦争が起こる。100年間も。これを百年戦争という。1339年からです。ヨーロッパは戦争だらけです。百年戦争、三十年戦争、ざらです。
 日本だって、関ヶ原の戦いとかあったじゃないか、と言って、関ヶ原の戦いが100年も続いたと思っている人がいます。これはたった1日で終わる。もっと言えば半日で終わる。日本は半日で300年の平和を維持する。

 ここでは百年戦争です。日本は平和が基本です。例外的に戦争がある。ヨーロッパはその逆です。戦争が基本です。例外的に平和がある。

 百年戦争は英仏間の戦争です。英はイギリス、仏はフランスです。こうやってヨーロッパの有名な国は、漢字一文字で出てくる。

 最初はイギリス有利だった、これを跳ね返したのが、フランスの16才の少女だったというのです。ジャンヌ・ダルクという16歳の田舎少女が出てきて、フランス軍を率いてイギリスに戦いを挑む。そして勝つ。

 この話は不思議です。私にはよく分からない。しかも最後は魔女裁判にかけられて火あぶりの刑で死ぬんです。

 これはイギリスの撤退が政策的に進められていく中で、一種の話題作りと戦意高揚のためにでっち上げられたフランスの広告戦略であり、ジャンヌ・ダルクはそれに利用された広告ガールに過ぎないのが実体でしょう。

 これでフランスがイギリスに勝ちます。終わったのが1453年です。このことでイギリスはフランス国内の領地を失い、フランスとははっきりと別の国になります。

 この戦いの中心地はフランドル地方です。フランスみたいですけど、今のベルギーです。オランダの南にある小さい国です。ここはけっこう豊かなんです。狭いけど、お金になる地域です。フランスもイギリスも本音ではここが欲しかったのです。

 ここが何をつくっているかというと、ウールです。ウールというのは毛織物です。

 我々が着ているのは木綿です。逆にいうと、ヨーロッパには木綿がないんです。だからこのウールに頼るしかない。これがこの時代の衣料品事情です。その生産地がフランドル地方で、これで儲けている豊かな地域です。

※ 百年戦争中、非常に興味深い現象が起こります。戦場となったフランドル地域を離れて、フランドル毛織物業者が大挙してイギリスへ引っ越しをし始めます。戦争によって経済活動が阻害され、原料の羊毛が安定的に入手できない状況に追い込まれたフランドル毛織物業者たちは原料の生産地であるイギリスに海外移転します。(宇山卓栄)

※ 十字軍運動の中で頭角を現したのが、銀の取引で王と諸侯に対して担保をとる前貸しにより利益を上げたロンバルディア人だった。ちなみに彼らの一部は、14世紀にロンドンのシティに移住し銀行家として活躍した。ロンドンの金融の中心ロンバード街の名の起こりは「ロンバルディア」にある。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ ヨーロッパ最古のアラビア数字の使用は、10世紀のこととされる。イスラーム世界を媒介にしてインドの記号が移植されたのである。
 イスラム世界に起源を持つ簿記は、1340年にジェノバで「複式簿記」として定着した。(宮崎正勝 お金の世界史)


 この後の衣料品事情について触れておきます。
 真夏でも毛糸を着ておかないていけない。だから汗で臭い。木綿がない時代に、上質なウールはなくてはならないものです。

 ヨーロッパ人がアジアに行って、涼しい木綿を知ると、これが欲しくてたまらない。しかしつくれない。気候が合わずに栽培できないんです。これをいかに安く仕入れるか。それが課題になる。この仕入れ先がインドです。インドには木綿がある。
 これに目をつけたのがイギリスです。こういった細かいところに、近代に結びつく要素がある。

 毛糸しかなければ、ウールで満足してたけど、それは木綿を知らないからです。毛糸なんか夏に着ていたら、日本人はバカだと思う。あんなのをよく着るぞと。しかしそのウールしかないわけです。このウールは洗うと縮むので、なかなか洗うことができません。
 しかも彼らは風呂にはいりません。ヨーロッパで、なぜ香水が流行るかというと、彼らは不衛生で臭いからです。夏に毛糸を来ている人には臭くて近寄れない。香水はそのにおい消しです。日本人は毎日風呂に入る。だから香水なんか本当は要らないのです。

 サングラスといっしょで、青い目のヨーロッパ人には、光を防ぐサングラスは意味がある。しかし黒い目の日本人には意味がありません。それといっしょで、香水は日本人には意味がない。
 それにトイレがない。どうするか。オマルの生活です。用を足したあとは、二階からそのまま捨てる。オーイ、どけどけ、と言って、バシーっと道端にものを捨てる。だから中世のヨーロッパの都会の道ばたは糞尿の山です。

 中世のヨーロッパの都会は、お洒落だというイメージがありますが、これがヨーロッパの都市の実体です。この時代の都市は我々の想像を絶する汚さです。
 衛生的に劣悪です。そこで何が流行るか。伝染病です。ペストです。真っ黒に皮膚がなるから黒死病という。これでとんでもない数の人が死にます。
 これで終わります。ではまた。



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