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無為自然 [中庸]

今回はかなり内省的な話になりますがお付き合いください。
自宅待機の中、先月中旬、母親が転倒して救急車で運ばれ、左腕骨折が判明。
以後、私の負担が増し、勤務に行かないとはいえ、ほとんど身動きが取れない状態です。
なにぶん母親の面倒と私自身の先行き不安が重なり、行動が制限されているため、思考が内省的にならざるを得ないのです。
また、過去の私自身と照らし合わせて、進歩したのか、道が確かなものなのか危ういものなのか、考える機会を与えられている気もします。

25年ほど前、同僚たち数人と温泉旅行に行った時のこと。
宿の部屋で浴衣に着替えてのんびりしていると、一匹の「ガガンボ」が壁に停まったり移動したりしているのが目に入りました。
「迷い込んだのだろう」と思い、私はお膳に置いてあったプラスチック製の透明なコーヒーカップを使って、そのガガンボを捕獲して窓から逃がしてやりました。
それを見ていた同僚のSさんが、普段の私の活動を知っていることもあって、
「ハセガワさんは天国に行くよ」
と言いました。
私はすかさず、
「いやぁ、意識してやっているうちはまだ駄目なんだよ」
と半ば謙遜で返しました。〔この話は2作目の『本物の思考力』にあります〕
gaganbo2.jpg
あれから四半世紀が過ぎ、今は「意識しないで」同じことが出来ているかと言えば、出来ていません。
アシナガバチが入ってきた時は、不用意に触れるとこちらの意向を汲み取ることなく刺したりして、なにかと厄介だからということもあって、窓を開けてなんとか明るい方へと追いやりましたし、よく入ってくる蜘蛛に対しては、家の中じゃエサが見つからないだろうからと言い聞かせて、手で救って外に出したりと、とにかく「理由」を付けて逃がしているのです。
それも、幼少の頃に昆虫などを平気で殺したことに対する罪滅ぼしとして、つまり「カルマの解消」を地上に居るうちに済ませようという文字通り「虫のいい動機」で行動しているようなもので、一見、「道を行くこと」とは程遠いものとなってしまっています。
だいいち、ゴキブリや蚊は相変わらず殺していますし、自分の都合による計らいで行動していることには変わりはありません。
これでは霊的にまったく進歩がないのではないか、と一時期悩みました。

私はかつて、本当の自然(自然になること)とは「自然と自然でないものがなくなること」と言いました。
自然とはあくまでも「無為自然」であって、自然を感じているうちは、計らいの対極としてある計らいの欠如した(と勝手に思っている)異物(自然の影、野生動物や原生林などの自然の象徴)があるのであり、自分自身も計らいの目で対象を見ているということです。(そこに神が宿っている、神の意思が働いている等)
要するに、感じているうちは、自分が無為自然になっていないと考えたのです。
そして、無為自然を獲得すれば、あの時のガガンボを無意識に逃がすことが出来て、結果、天国(浄土)へ行けるはずだと思いました。
25年前の私は、修行次第で(無意識という意味で)無為自然を獲得することができると思っていたのです。

以前にも何度か言ったように、
【人間から離れたものを「自然」と呼び、人間や人間の行動や産物を「自然でない」と言うのなら、人間が生まれる前の地球はすべて自然の営みと言える(すべては分子の運動で説明できる)。ところがいつしか人間が生まれた。と言うことは、自然が自然でないものを生んだことになり、今でも自然が自然でないことをしていることになる】
というパラドックスから、私は人間から離れたものを「自然」と呼びたくないし、「自然」という言葉をむやみに使いたくないのです。
みな同じ絶対者から派生した存在であり、周囲を取り巻くものを異物とするのには抵抗があります。(今もそうです)
そうさせているのは、自分に「意思」や「計らい」があるからであり、当時はそれを消せば異物がなくなり、パラドックスも解消して、邪念なく純粋に利他業ができると思っていたわけです。

以後、周知のように、私は即非の実践(省察)によって、自然と自然でないものが一本の直線として見ること、さらに超越することで、自分を含めた全体に神の光が射しているということを確信するに至りました。
でも、よくよく顧みると、地上的なこと、目に見えることで私に出来ることは、
《極端なことをしないこと》
くらいだと気づいたのです。

こんな私も相変わらず物質生活のために収入を得て、美食や文化を嗜み、およそ普通の大人の男がすることをしているわけです。
ただ、道を行くためか、性格なのか、甲斐性がないのか、徹底してやらないだけです。
結論から言えば、この《極端なことをしなくなる》ということが一つの到達点と言えます。
まあこれが私の「でくの坊」たるゆえんですが。

考えてみれば、肉体を持ち、知性を備えているわけですから、少なくとも都会で社会生活をしているならば、「計らい」が消えるわけがありません。
おそらく今、文明から離れて山奥で暮らしても、死ぬまで消えないでしょう。
どうやら、無為自然を「自然すら感じなくなること」あるいは「無意識になる」とすることが間違いのようです。
例えば、本当の充足とは「充足を感じなくなること」と言えます。(呼吸のように)
でも、もしすべてにおいて充足していたら、知性も意思も計らいもなく、この世に生きていないでしょう。
それと同じことが言えそうです。

そこで、「自然の象徴」たちに対する接し方ですが、もちろん征服するのでもなく同化するのでもなく、言わば適当に調和するといった感覚です。
(共存とはニュアンスが違います)
キリスト教的に言えば、霊長としてそれらを制御あるいは管理するといった具合です。

「一体になること」はけっして「同じになること」ではありません。
一人一人の人間はみな霊的に繋がっていて「一体」であるけれども、それぞれ別の側面を生きているのであって、けっして「同じ」になるわけではありません。
同様に、「人間全体」と「自然の象徴たち」は、一体にはなれるけれども、同じにはなれません。
すべてに霊が宿り、それぞれの霊格をもってそれぞれの役割を担って全体の側面を営んでいるのです。

無為自然になることはけっして無意識に行動することではありません。
人間が利他業をすることができるのは、むしろ知性を備えているからです。
人間の愛は知性があってこそ発動するのです。

「計らいなき計らい」とは、計らいを消すわけではなく、それを含んだまま超越すること、執着から離れるということです。
計らいを(原理的に)消すことはできないということが(理性で)わかればひとまずそれで「執着」からは離れるということで、自信をもって行動すればよいという結果に落ち着きました。

それでは、25年前のガガンボの件は、今だったらどうするか?
やはり同じように逃がしてやります。
ただ違うところは、あの時のようにその報いがどうとか悩まないということです。

実はこうして偉そうに言っているところへ、試されるかの如く、さっそくその機会がやってきました。
つい先ほど、トイレに入ると、便器の水面に一匹の蛾が溺れてバタバタもがいていました。
(窓を少し開けてあったため迷い込んだのでしょう)
鱗粉もかなり落ちているし、もう手遅れかもしれないから、そのまま流そうかと一瞬迷いましたが、微かな可能性を信じて、柄付ブラシで救い、びしょ濡れで飛べない蛾を窓から一階のトタン屋根に放ちました。
「まあ少しでも生き延びてくれればいい」
それだけです。
それ以外のことは、あってもどうでもいいと思うようになりました。

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