「伺う」と、「訪れる」との違い~言葉というもの~ | 不思議なことはまだまだ起こる

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この言葉が私の頭の天辺からつま先までを抜けた。
この日から、私は自分の人生が自分の思うがままに生きられることを知った。人生って最高!

最近、音の無い時間を過ごすことが多いのよね~という方、そうで無い方、ぽちっと、応援お願い致します。


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有難うございます。
音の無い時間を過ごすということは、ご自分のチームの方々との会話が必要な時です。
身を整え、そのまま、お過ごしになられた方が良いと思います。
ささっ、本文を読んでくださいませ。

 私は、鑑定後、ご縁を頂いた方々と、メールのやり取りをさせて頂いております。

このことを勧めてくれたのは、私が生後まもなくの時に亡くなった母方の祖母です。

祖母は、何かにつけ、私の行動、言動に、物言いをつけて来るのですが、向こうは、私を抱いた記憶があっても、私は抱かれた記憶などありません。
ですので、『いちいち、うるさいな。写真の中だけにいろよ。くちょばばぁ』と、言ってしまうことも、しばしばです。
(一応、私なりの礼儀として、「くちょばばぁ」を言う時は、お口を手で塞いでいます)

ただ、その祖母が話してくれることは、「ああ、うん」「そうだね」「何となくわかる」ということばかりですので、がっつり上から目線で言われても、口答えは時々しかせず、黙って聞くように努めています。
口答えをしようものなら、「きっかん子やね、あんた!」と、言葉が飛んできます。

私は、以前から、ご縁を頂いた方々に、お伝え申し上げた寺社に、お相手の方が伺い、ご縁を沢山頂ける方と、そうで無い方の違いについて思っていたことが有りました。

それは、その後、ご連絡を頂く文面の、お言葉の違いです。
「やんちゃさんに、言われた神社に、伺って来ました」という方と、「私は、言われた神社を、訪れました」と、記してくださっている方。

前者の方は、神域に入らせて頂くということ、その場所を、日々、整えている方々のお心を汲んでいらっしゃると思います。

ですが、後者の方は、ただ、立ち入った、足を向けた場所としか思っていらっしゃらないように感じます。

私は、後者の方のお言葉に対する違和感というものがありました。

そのような違和感を覚えていた時、祖母が、「やんちゃ、考えたら分かることじゃない。言葉を発する時には、言葉の前後というものがあるんです。それが、事を左右するものです。人の家に、お邪魔させて頂いた後、『先日、こちらに伺わせて頂いた時』とは言っても、『先日、こちらを訪れた時』とは、言わないと思う。万一、その方が、そのように仰るのであれば、人とも、場所とも、良きご縁には繋がらない方。それと、やんちゃには、『訪れた』という言葉を使い、人の前では『伺った』と、言葉を変えるのであれば、常に損得勘定が働いている、常に胸に悪意が秘められている、そういう方です。人は、要らぬことを考えず、一貫性があることが、一番強いんです。ひと時、自分が言い放った言葉に酔い、勝ち誇ったかのように振舞っても、それは、ただ、ひと時のこと。堪える力、控える力、蓄積する力がないの。『浅はか』というのは、そういうことよ。浅はかな考えの方は、深い考えを持った方に、必ず見抜かれます。仕事を一緒にするにしても、これからの人生を歩むにしても、浅はかな考えでいる方には、一緒に過ごして行きたいという気持ちには、ならないと思います。人や、場所に対し、ご縁を頂くことを、有難く思える人は、それなりの言葉を選びます。同じ意味合いを持つ言葉でも、時や、場所や、人を敬う言葉を選んで、自分自身の豊かさに繋げることが出来る人、出来ない人には、のちに、大きな差が出来てきます。それは、一事を万事と思わず、ひと時を軽んじるのですから、ひと時を軽んじる方は、自分の人生を軽んじるのと同じです」と、話してくれました。

私は、祖母が時々話してくれる、このような話を、「ふ~ん」と聞いているのですが、祖母が話してくれることは、間違ってはいない気がします。

何故ならば、後に頂くメールの文面に、「訪れました」と、書いてくださっている方は、鑑定時、お話くださるお言葉に、ある特徴があるからです。

それは、「私は、自分で言うのも何ですが、周りから、とても優秀だと言われていますし、嫉妬もされます」ということや、「私は、独立したのですが、その理由は、会社の中に居ても、どうやったら上手く行くかということが、直ぐに分かってしまって、物足りなくなったからです」と、いうことです。

「自分で言うのも何ですが、周りから、とても優秀だと言われて」と、仰る方には、『本当に、自分で言うことじゃないよな。聞いているこっちが、顔が赤くなるわ』と、思いますし、「どうやったら上手く行くかということが、直ぐに分かってしまって」と、仰る方には、『だったら、何で、貴方は此処に居るの?人と話してる暇なんかないじゃない』と思います。

どちらの方も、お世話になった(又は、なっている)会社に対し、感謝の心など無いのだと思います。
功績を残せたのは、自分に力があっただけであり、会社の知名度の後押し、周りの方々のお力添えがあったからなどとは、微塵も感じないのだと思います。

そのようなことだから、人との対立が避けられず、どのような場所に伺っても、良きご縁に繋げることが出来ないのだと思います。

どれ程の知識があっても、人としての心を見失うようであれば、人の支えも、神の支えも頂くことは出来ず、ご自分を誇示し、対立関係を、自ら作っていくだけなのだと思います。

この世は、人の知識で作り上げられているのではなく、心熱く持った方々の知恵や、努力が作り上げたものだと思います。

寺社というものは、沢山の方々が、思いを寄せている場所です。
その思いが、少しでも感じられるならば、お言葉は、違って来るのではないかと思います。

沢山の方々に読んで頂きたく、参加させて頂いております。
ぽちっと、応援頂ければ幸いです。


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いつも応援頂き有難うございます。
心より感謝申し上げます。


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出版社:KADOKAWA

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