移ろいゆくものに心奪われることなく



2019年3月7日、魚座新月の日は朝から雨で、この季節には珍しく雷も鳴りました。そしてその夕方、雨はあがり、空には美しい虹が掛かりました。その虹はまるですべてを洗い流した空を祝福しているかのようでした。(「人類共通の学びを紹介していく」より)

9月14日13時33分、魚座満月です。3月7日、魚座新月の日に浄化され、そこから芽生えた「想い」が何らかの結果を示すと共に洗い流され、これからはどんどん手放していく流れとなります。そんなトキの流れに意識を向けながら、いくつか文章を紹介したいと思っています。


魚座満月(2019年9月14日0時30分頃撮影)です。

まずはこんな文章からです。

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目の前の出来事に右往左往せずにプロセスとして見ていく。こんなふうに思っていても、大きな衝撃に出会うと目の前の出来事に右往左往するようになる。大切なことを忘れてしまう。だから大切な姿勢を思い出そう。こんなふうに思考が展開したトキ、それは違うなと思いました。


出会う出来事はすべて自分に相応しく与えられています。大きな衝撃も今までの生の結果として出会うことで、目の前の出来事に右往左往するのは、自分の中の本質が育っていなかった証です。

プロセスとして見ていく。そんなことを語っていても、本質を育むことを怠り、物事に表面的に対応していると、そのうちそういう自分を教えてくれる現象と出会い苦しむことになるのです。その苦しみは天からの恵みとも言えるのですが、苦しみを超えてただ出会う出来事を楽しんでいく。そのようになるためには、それだけ自分の本質を磨く必要があります。

移ろいゆくものに心奪られることなく

これはお釈迦様が語った言葉と言われていますが、こういう聖人聖者が語った言葉を正解とすることは、結局、表面的な対応をしているに過ぎません。正解だと思うことに自分を合わせようとしているだけなので。偉大な言葉は道しるべに過ぎません。この世界に前もって分かる正解はなく、すべては今までの生の結果であり、人の本質はあくまで出会う出来事を通して磨かれていきます。磨いた結果、自ずから悟り(差取り)に至るのが本当です。

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そして次に紹介するのは、2017年マヤ新年の朝、ミストのように降り注ぐ雨の中でジイジ(当時はいさどん)が語った言葉です。

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私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。

人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。



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この年、木の花ファミリーの聖地、宮ノ下広場にて、熊野杉とヒマラヤ樫が出会い祭場が生まれました。これらはジイジによって植えられたのですが、祭場は、結果生まれたもので、ジイジの意図を超えた出来事です。人間は、生きているのではなく生かされている存在です。それは自らの意図を超えたことで、意図を超えた出来事の中に自らの実態、本質が表現されるのです。そこを謙虚にいただくことが本質を磨くことに繋がります。

ということで、次に紹介するのは6年前、2013年に交わされたジイジ(当時はいさどん)とともちゃんの会話です。

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いさどん:昨日の夜、家に帰る時に夜空を見上げながら、できればこの質量を放棄して、あの星に向かってこのまますーっと行きたいなあ、って思った。それは、「上」に行く、ということではないんだよ。宇宙空間へ出るというだけのことで、宇宙には上下はないからね。
それで、どこへ行くかというと、やっぱりこの太陽系を離れて、銀河の旅をしたいんだよ。この天の川銀河も離れて、別の銀河へ行きたいなあって思ってしまうんだよ。

こうやって話すと絵空事みたいだけど、僕のその想いは本物なんだよ。そしてその想いが現実を創っていく。聖書に「始めに言葉ありき」とあるでしょ。言葉っていうのは想いからできてるから、始まりは想いなんだよ。「想う」という段階では、目には見えない。つかむこともできない。けれども、すべての形あるものは、始めにイメージすることから生まれてくるんだよ。「想う」ということは、宇宙を創造する原理なんだよ。
だから、僕は銀河の旅のこともすっごいマジに考えてるのよ。この肉体から離れることが、すごく楽しみなんだよ。そしてその真剣な想いは、より現実化していくんだ。

結局、その人が何を思考するかが、その人の存在を決めるんだよ。愛ある思考を持っていれば愛ある世界ができるし、愛もどきだったらもどきの世界ができる。そのことに僕はずいぶん前に気付いたものだから、疑わないでとことんやることにした。そうすると、その世界は現実化し、深くなっていく。

ともこ:私も愛ある者になりたくて、それをやろうとするんだけど、一生懸命やろうとしてるうちは“もどき”だなって思うの。「愛あるものになるんだ!」って頭の中で思ってるだけで、心はそうじゃない。そんな者にも、本物の愛が育っていくのかな?

いさどん:それがもどきであるうちは、もどきの世界ができるよね。でもいつか、その一生懸命がもどきじゃないものにつながれば、その時にはそれにふさわしい世界が表れるよ。その人の心のあり方が忠実に再現されるのがこの世界の法則だから。そこのところをとことん理解して、信じて、それになりきれば、その想いにふさわしい現象を生んでいくよ。

僕は確信を持ってるんだよ。昔、富士のふもとに菩薩の里を創ろうとイメージした時に、「いや、そんなことは無理だ」とか「自分みたいなものが人に影響を与えられるようになるのだろうか」という想いが湧いた。だけど同時に、それだからいけない、自分で自分の想いを否定するようなことではいけない、と思ったんだよ。だからその自分を否定する自分を否定して、自分にはそれができるんだと信じ切ることにした。やるだけやって、結果をもらえばいいじゃないか、って考えるようにしたんだ。

極端なことを言うとね。これは本当だろうかと考えるようなことがあった時に、それは僕をたぶらかそうとしている悪魔が、僕をからかって、天になりすまして与えたものだったとするでしょ。僕は、それでもいいと思うんだよ。なぜなら、僕はこの道を歩む時に、とことん信じることをベースにしているから。とことん信じて、まっすぐ進むということをベースにして歩んでいる限り、たとえそれを与えているのが悪魔だったとしても、それでもかまわないんだよ。
そして、僕が人生を終える時に悪魔が
「はっはっは。どうだ、見事にお前を騙してやったぞ。引っかかったな」
と言ったらね、僕はそこでにっこり笑ってね、
「そうですか。あなたは悪魔で、私を騙してきたんですね。
でもその悪魔に私が提供したものは何だと思いますか」
と言うんだよ。そしてね、その僕を騙し続けてきた悪魔に向かって、こう言うんだ。
 
「僕はまっすぐ信じて、この道を歩み切りました。
 この私の人生をあなたにプレゼントしますよ。」
 
 
ねじれて、歪んで、疑っているものを悪魔と呼ぶならば、その悪魔にとって、そんな恐ろしい返り討ちはないんだよ。だってそれは、完全に彼を否定するものだから。彼はそこで「ああ、やられた」と言って消えていくか、それとも、申し訳なかったと言って心を入れ替えるかの、どちらかだろうね。
だから、たとえ悪魔であったとしても決して屈しないんだよ。ましてやそれが神であるならば、なおさらそのまま進んでいけばいい。


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想いが現実を創っていく。その人が何を思考するかが、その人の存在を決める。

ジイジはそう語っていますが、学びのない姿勢のままだと「想い」は「欲」となり自らの独りよがりとなっていきます。多くの人が平和を望みながら、人間社会では争いが続いています。それは平和を望む「想い」がもどきであり、本物ではない証と言えます。基本的に人は自らの「想い」がどのようなものかを知りません。それを教えてくれるのが、目の前に現れる現象であり、それを謙虚にいただくことが自己認識に繋がり、学びとなっていくのです。平和もどき、愛もどきの「想い」が今の世界を生み出していますが、そのような自分たちを知り、だからこそ本物を目指して余分なものをそぎ落としていく。そんな「想い」が今、必要なのだと思います。ということで最後に、今年のマヤ新年にジイジから発信された言葉を紹介しますね。

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地球に生きる私たちは、日々の中で様々な物理的現象に出会います。それは、その現象からきめ細やかな学習の機会を与えられ、生きているということです。そこで自らの思惑から外れたことに出会えば、その未熟さゆえに、人間は悲しみ、怒りもするものです。しかし、宇宙の法とは因果応報であり、輪廻転生であり、常に新陳代謝を繰り返す永遠なる循環の世界です。その中で特定の状態に執着する思考を持っていれば、循環の中に滞りを生み、宇宙の意思から外れていくのです。その囚われから、人間はどれだけ自らを解放することができるでしょうか。
何人も、世界の現状を自らと切り離して捉えるのではなく、自らのあり方が世界の現状を創っていることに責任を持ち、謙虚な姿勢で生きることの表現に取り組んでいかなければなりません。これまでの人々は、問題ごとに出会えば自らを差し置いてその問題ごとに怒りを向け、批判をする立場に立ってきました。けれども今私たちに必要なことは、怒りや批判ではなく、宇宙の中で私たち人間がどのような存在であるかに気付き、自らが謙虚に生きることなのです。
そのような意識レベルに到達した時、私たちは、この世界がすべて愛でできていることを、知ることとなるでしょう。私たち木の花ファミリーは小さな存在ではありますが、これは地球の未来に向けた、宇宙秩序に基づく生き方の実践です。宇宙の成り立ちがそうであるように、地球の生態系に表現されたその尊い宇宙の奇跡を、そこに生きる私たちは、ふさわしく表現していかなければならないのです。
目覚めよ。
その目覚めが、宇宙の奇跡である地球と共に、人類が尊き存在として歩むことにつながることを願って ──────

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