風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

新しい雨が降る、古い雨が降る

2019年06月20日 | 「新エッセイ集2019」
窓から入ってくる風が湿っぽくて重たいと思ったら、いつのまにか梅雨に入っていたらしい。
雨の匂いだろうか、草の匂いだろうか、匂いの層が厚くなったみたいだ。
流れてくる風も液体みたいで、体がべったりと包まれる感じがしてくる。水をかきわけながら泳ぐ、青い魚にでもなったみたいだ。水から生まれ水に戻っていく、そんな古い水の記憶がどこかにあるのだろうか。思い出せそうで思い出せないこの感覚は、すこしだけ原初の生命感覚に戻されているといえるかもしれない。

季節はくりかえし巡ってくるが、雨の季節はそれなりの存在感がある。
古くて新しい。古いものが幾層にも重なっているから新しいのか。どこまでが古くて、どこからが新しいのか。花の形は変わらない。魚の形も変わらない。花も魚も、いつも同じ記憶の中を回遊しているからだろうか。
雨の中で、雨のことを思い出す。雨のことを書いたブログの文章のことを思い出す。10年前に書いたものを取り出して、古かったり新しかったりする歳月というものを考えてみる。なにが古くてなにが新しいのか、ますますわからなくなる。

あるときは、雨に洗われた空がある
草もしずかに雨に洗われている。
地上には小さな水たまり、天上にももうすぐ大きな水たまりができるかもしれない。ぼくには水たまりを楽しく泳ぎ渡る、そんな術などない。
虫のくせに、水の上を歩けるアメンボはすごいと思ったことがある。いつか、いつだったか、空にもアメンボが泳いでいた。よく伸びるその細い脚をつかむと、アメンボは甘いお菓子の匂いがした。

雨の日は、記憶の匂いも泳ぎ出してくる。何かを引き連れてくるような雨の匂いの懐かしさ。いつも蘇ってくるこの感覚は、古いのだろうか新しいのだろうか。
そんなことはまあ、どちらでもいいといえばいいのだが、単純にくりかえされる雨の音にとじ込められていると、どうでもいいことばかり考えてしまう。
思いきって雨の中へ飛び出していくべきか。できれば、ガクアジサイのようなきれいな雨傘をさして出かけたい。




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