独楽の旅

元気で山野を歩き、心を癒してくれたものは立ちどまって気ままに写し、ブログに載せ、自分で存分に楽しむのが無上の喜びです。

604 -【 終戦の日に思う 】 (2020/08/15)

2020年08月16日 | [日記]
日本が大東亜戦争に敗れて今年で早くも75年目を迎えました
昭和天皇の [終戦の詔勅] を石州・井原で傾聴したのは満9歳で国民小学校4年生の時でした
母親の生れ郷里の島根県邑智郡井原村天蔵寺原(現在の邑南町)の叔父母の家に戦争疎開して丁度2週間経ったばかりの事でした

井原に来るまでは郷里・山口県宇部市で連日、[警戒警報]、[空襲警報] のサイレンが街中に鳴り渡る日々の連続でした
そんな毎日でも警報が解除されるとランドセルを背負って小学校に向かうのです
私の通う学校は見初(ミゾメ)小学校と云い、自宅(宇部市の中通り6丁目)から1km余り離れた処にありました
校舎は[ヨ] の字に型どった木造総2階造りの広い校舎でした
今でも懐かしく想い出され懐かしい思い出です  でも決して現実には帰ってこない景色です

小学校の校庭にはその北端に [奉安殿] と [二宮尊徳像] がありました
今の世間には存在しない施設で、敗戦と同時に撤去されて [奉安殿] と云う小さな木造・校倉造りに似た建物はがありました
その建物の中には今上陛下(昭和天皇)ご一家のご真影(各家庭にも神間の上にあり)と[教育勅語]が安置奉納されていたいたのです
勿論、私など子供は目にすることはできず、内部を観たことなどありませんでした

昭和20年7月2日の夜、宇部市はB-29の大編隊の空襲で一夜にして市の全域が火の海になり、灰燼に帰してしまったのです
親父は当時住んでいた中通り6丁目の町内会長をしており、組員みんなの協力のお陰で1軒も消失することなく終わってくれました
これは町内会長で頑張っていた親父には戦中の空襲下での一つの自慢の種でした

この空襲は爆弾投下や機銃掃射は少なく多くは焼夷弾を投下しての木造住宅の消失を狙うものでした
 [焼夷弾は]:外形が六角形の直径ほぼ15cm、長さ約1mの鋼鉄板で作られた鉄の筒でその中に生ゴムをガソリンで溶した自転車チュウブの修理に遣うゴム糊と同じものです

市内の全てが木造住宅で火災を起こせば見る間に燃え広がり燃え尽きてしまうのです
1発の焼夷弾で一面が火の海になってしまうのを小学4年生の私は眼のあたりで観たのです  火災を消す人は誰一人おらず観るまに類焼してしまいその燃え広がり燃え尽きるまで燃え盛るのです
類焼の速さは驚くほどでその有様を目の前に観て機上の敵の搭乗員がほくそ笑んでいるだろう顔が想像できるのでした
1度燃え出すと風が強い風が起こり火は四方八方に広がっていき、誰も消す者があいないので、唯燃え広がるばかりで一面が火の海になり、あっという間に灰塵になるまで燃え尽きてしまうのです
機上の敵にしては全てが木造の家屋であり類焼の早い日本の家屋は意のままに成果を挙げて笑みして帰投していただろうと想像できます  今にしても残念で憎らしいことです

翌日、夜が明けてみると宇部市は見渡す限りの焼け野原になっておりました
そして、日が暮れて夜になる東の空が真っ赤に染まり近くにある見初炭鉱の山と積まれた貯炭場に火がついて燃え盛りその後何日も夜空を赤く染めて燃え続けたあのです
日本の戦力備蓄の石炭が燃え尽きてしまうまで燃え続けていたのを憶えています

空襲の翌日から我々学生は駐在の軍人や先生の指導の下、焼け跡の掃除(後片付け)に毎日精出す日々でした
焼け跡掃除で出てくるのは学生が習字に使っていた(鉄製の)文鎮が赤錆びて燃えかすとして集めたのを覚えております
この鉄製の文鎮と焼け錆びた五寸釘くらいでしたのを憶えています  これらは鉄物はアメリカを滅ぼすための戦車、弾丸など武器を造る材料として集め、
「兵隊さんの為に」と供出するのです
その他に目ぼしいものは何もなく基礎に残るコンクリート土台が残っているだけでした

1日の掃除が終わって帰る時に担任の先生からコッペパン1個が買える切符が貰えるのです
その切符を持って食料配給処に行くとコッペパン1個が買えるのです  いくらだったか記憶にありませんが最初の日はその切符で1個、買ってきてみたのですがとても食べられる味のパンではなかったことを子供心にも憶えています  両親は勿論私にも不味くて喉を通さず呑み込めないようなパンだったのです  贅沢に聞こえますが我が家の両親と私の3人の口には合わない不味い物で呑み込めなかったことを今も鮮明に憶えています  

焼け跡掃除の度に帰りにパン1個の購入券が貰えるのですがその切符は毎日貰って来ては斜め向かいの家のSさん家に持参すると喜ばれるので毎回譲ってあげていました  
それ程当時の内地はは食糧欠乏の時代だったのです (敗戦の半月前のことだったのです)

島根県・石見の国(石州)・井原で百姓をしている母方の叔父母からの食料の支援を受けてこんな欠食の時代でも満腹まで食べさせて貰い、人間らしい生活を送らせてもらいました
今でも叔父叔母ご両人のご恩を忘れることはできません

その後も日本各地への空襲は連日連夜続き、襲来するB-29の編隊に対し迎撃つ戦闘機はおらず地上から上空に向かって打ち上げる高射砲はなく
時に撃たれる弾は敵機のはるか下方で炸裂し敵機は悠々と攻撃を済ませて飛び去っていくのです  
歯がゆい限りですが何ともできないのです  戦力の大差によるものです
子供心にこんなに戦力差のある国を相手にして交戦すること自体が最初から間違いだったのです

明日の日の命も危ぶまれる当時の日本は、日本が全滅させられるまで空襲は続くことが予想されわれら国民は死なないこと殺されないことを祈るばかりの毎日でした
9歳の幼い少年だった私は当時の戦時中の親父にとっては足手まといで、母の妹の叔母が跡を継ぐ[新出屋]に疎開させることに決めたのです

7月2日の大空襲の戦禍で消失した母校の焼け跡掃除を終わってから、昭和20年7月30日の夜に母に連れられて宇部岬から国鉄の山口線、津和野、江津、三江線、因原を経て叔父母の住む石州井原に戦争疎開したのです  国民小学校4年の2学期、夏休み中だったのです

着いた処は母の故郷・生家の [新出屋(ニイデヤ)] は島根県邑智郡井原村天蔵寺原(現在:邑南町manaca)にあり、石州・石見の国で いつも [セキシュウ] と今も慣れ親しく呼んでいます
敗戦色の濃いい当時、叔母の家とは云え知らぬ土地への疎開ですから私にとってそれは心細い転地・転校の戦争疎開だったのです

直ぐに母と叔母に連れられて(村立井原)小学校への転校入学の手続きを済ませ心細い気持ちで夏休みを終わっての初登校日を不安な気持ちで待っていました
それから6日後の8月6日の朝、井原から北東の山越えにある広島市に世界初の [原子爆弾] が投下される
学校から帰ったらすぐに親の手伝いするのは当然であり、初めて体験する百姓です
予想もできないほどの肉体労働で、足腰の痛む日々でしたが負けず嫌いの私は最大限の努力で打ち込みましたる
遂には腰痛症が持病になり叔父や叔母に連れられて田所の鍼医者に月一くらいで歩いて通院したのを憶えかぎりっですがています
そして最初に迎えた夏、秋場には [ホビ] という蚊のようなノミのような小さな虫に素足をごりょうにんの
当時、学生疎開が大都市部を中心に流行っておりましたがそれは大集団での疎開で
私のように単独の疎開は友人から離れての単独の疎開なので寂しいものでした
言葉も風土も違う土地に単独で乗り込むのですから不安だらけです
私の疎開は叔母の家 [新出屋] への転居ですから別の意味で不安がありましたが
空襲が激しくなって生き延びるための疎開ですから異論を唱える余裕はなかったのです

空襲の隙間を縫って母に連れられ宇部岬駅から国鉄宇部線で小郡へ、
そして山口線、山陰線そして山江線を乗り継いでいる母の生家で妹夫婦の [新出屋] に向かったのです
話す言葉も違うし、四辺そこいらにホビと云う蚊より小さい刺す虫がいて最初の1年は膝から下は化膿して大変苦労しました

井原に着いて2週間目の8月15日に終戦を迎え、昭和天皇のあの
 『 耐え難きを耐え、忍び難きをしのび 』
の詔勅を拝聴した時の情景を昨日のようにありありと思い出し忘れる事が出来ません
空襲の体験をし、生き延びて84歳を元気に過ごし、日々を新型コロナ(こ)と戦いながら

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