真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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東京裁判NO5 オランダ領への侵略とフィリピン残虐事件

2020年07月15日 | 国際・政治

 東京裁判の審理が「日本の対オランダ侵略」の段階に入った時、日本側被告のアメリカ人弁護士オーウェン・カニンガム(大島浩担当)弁護人が突如発言台に立ち、「オランダはポツダム宣言の署名国ではない。しかも訴追事項の発生時オランダ政府は、国際法上の合法的な存在ではなく、英国に亡命していた。したがって陸戦法規に対する裁判の権限を有せず、また検事任命の権利もない」と、オランダの裁判参画を全面的に否定する爆弾発言をしたとのことですが、この主張は、すでに触れた清瀬弁護人の、下記の主張と通じるものだと思います。

異議の第二点を説明します。ポツダム宣言の受諾とは、七月二十六日現在に連合国とわが国との間に存在しておった戦争、われわれは当時大東亜戦争と唱えた戦争、その戦争を終了する国際上の宣言であったのです。それゆえに、その戦争犯罪とは、あの時に現に存在していた戦争、諸君の言う太平洋戦争、この戦争の戦争犯罪をいったものです。この大東亜戦争にも含まれず、すでに過去に終了してしまった戦争の戦争犯罪を思い出して起訴するということは、断じて考えられておりません。

 日本側弁護団は、このように裁判の対象をできるだけ時間的、また、空間的に狭めることを方針としたのではないかと思います。

 でも、ポツダム宣言には、
カイロ宣言ノ條項ハ履行セラルベク…
 とあり、そのカイロ宣言には
三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
 とあります。それは東京裁判が、単に、戦勝国が敗戦国に賠償を求めるような裁判ではないことを意味するのではないかと思います。また、カイロ宣言には
右同盟國ノ目的ハ日本國ヨリ1914年ノ第一次世界戰爭ノ開始以後ニ於テ日本國ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト竝ニ滿洲、臺灣及澎湖島ノ如キ日本國ガ清國人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民國ニ返還スルコトニ在リ
ともあります。明治以後の皇国日本が、侵略国であったと断定しているとも言える内容だと思います。

だから、裁判の目的は、
無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラル
ことであり、また
吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戰爭犯罪人ニ對シテハ嚴重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ
 ということなのだと思います。

 日本側弁護団が、裁判の対象を時間的、また、空間的に狭めようとするのは、被告の戦争責任を可能な限り回避しようとする意図によるものだと思います。しかしながら、東京裁判は日本の戦争犯罪を裁く法廷です。訴追事項の発生当時、オランダ政府が国際法上の合法的な存在であったかどうかは関係のないことだと思います。大事な事は戦争犯罪の事実なのだと思います。
 また、裁判の対象が、太平洋戦争(1945年12月8日開戦)以後の戦争犯罪だけでないことは、日本が受諾したポツダム宣言の文章で明らかだと思います。

 戦争責任回避の姿勢は、被告の主張にも共通していると思います。

 「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)によると、A級戦犯の容疑で逮捕された東条被告は冒頭の罪状認否で”訴因全部に対し、わたくしは無罪を主張いたします”と言っています。訴因55の内、該当しないのは、25、35、45、46、47の五つのみだったのに、すべてで無罪だというのです。私には考えられないことですが、軍関係の文書は、市町村役場の文書に至るまで、すべて焼却処分を命じたので、言い逃れができると考えたのかも知れません。
 証拠を突き付けられ、否定しようのなかった全戦域の捕虜虐待・虐殺などの諸事件については、抗議がくり返されたにもかかわらず、”敗戦までその事実をまったく知らず、新聞発表をみて驚いた”などと言っているのです。そして、捕虜の取り扱いは、”各指揮官の責任であり、自分は彼らが人道を重んじ、条約、法規を守るものと信頼していた”と直接の責任を回避しています。
 直接責任を回避した後、”しかし私は、監督者として全責任がある”と認めるのです。でも、”全責任がある”と認めながら、結論としては、”訴因全部に対し、わたくしは無罪を主張いたします”ということなのです。一国の指導者の戦争責任が、こういう論理で逃れられるとは思えません。

 「モリカケ桜、黒川問題」の政権の対応を見ていると、こうした戦前・戦中の日本の指導者の姿勢が、「逆コース」といわれるアメリカの対日政策転換によって、現政権にまで引き継がれることになってしまったような気がします。(横書きのため、漢数字は算用数字に変更するなどしています)
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                   オランダ領への侵略

「オランダに裁判の資格なし」

十二月三日、審理は「日本の対オランダ侵略」の段階に入り、ヒギンス検事から、冒頭陳述担当者のオランダ代表検事としてフロゲフホフ・ムルダー少将が紹介された。ところがこのときカニンガム弁護人が突如発言台に立ち、
「オランダはポツダム宣言の署名国ではない。しかも訴追事項の発生時オランダ政府は、国際法上の合法的な存在ではなく、英国に亡命していた。したがって陸戦法規に対する裁判の権限を有せず、また検事任命の権利もない」
 と、オランダの裁判参画を全面的に否定する爆弾発言を申し立て、満廷一時はどうなることかと固唾をのんだが、ウェッブ裁判長は冷静な口調で、
「事実の上からも法的にもなんらの根拠なし」とこの異議を却下、ムルダー検事の冒頭陳述に入った。

 ムルダー検事の論陣
「一、オランダ国の領土保全の尊重
 1940年五月十一日有田外相は蘭印の現状維持を希望する公式声明をおこなった。さらに翌年三月二十四日渡欧中の松岡外相もモスクワ駐在米大使に対し日本はいかなる情勢においても、英、米、蘭の領土を攻撃しないであろうと主張している。

ニ、南方への膨張に関する日本の政策発展
 蘭印が新秩序圏内に含まれることを含蓄のある表現で声明されたのは1940年四月有田外相が
『日本は相互依存の関係により蘭印と緊密に結ばるべきだ』と述べたことにはじまる。
 1940年五月、ドイツのオランダ占領直後、日本政府はドイツにその対蘭印態度の声明を求めた。ドイツはこれに対し『無関心』を表明、白紙委任状を認めたのである。陸海軍および外務省代表者合同会議で南方地域は日本が政治的指導権を行使すべき地域であることをドイツに承認させる決議をした。 1941年ニ月ドイツ外務大臣は被告大島やベルリンを訪問した松岡と、戦後のヨーロッパおよび東亜の再建を論じ、この討論はさらに進んで蘭印の油田をいかにして無傷で獲得するかという問題にまで進んだ。

三、1940,41両年におけるオランダ、日本間の直接関係ならびに交渉
 1940年九月、日本は直接交渉のため時の商相小林一三を団長とする三十名の経済使節団を蘭印に派遣した。使節団の主目的の一つは、日本の軍需生産を強化するためと、三国協定下、盟約国ドイツ、イタリアに戦争遂行上必要な資材を供給するため蘭から原料の継続的流入を確保することであった。
 日本の緊急必需物資は石油であり、交渉においては製品よりもむしろ石油利権の獲得に努力するよう訓令されていた。交渉は数ヶ月続いたが、オランダは日本に特権を与えることも、南方における日本の優位をも承認せず、1941年五月末最後の覚書が交換されたが、協定までには達しえなかったので、日本は六月交渉を打ち切った。こうして七月には南部仏印の占領がおこなわれ、その結果として蘭印におけるすべての日本資産が凍結されることとなった。
四、蘭印における日本の壊乱行動
 戦争勃発前多年にわたって日本による広範な情報組織が蘭印に内に築かれ、幾千という日本人の大部分が軍事的重要性のある情報集めに活躍した。宣伝はとくに中国人とインドネシア人に力を注ぎ、占領地からは多数の中国人情報提供者がつれて来られた。

五、戦争ならびに戦争準備
 十二月八日日本は米英に宣戦を布告したが、オランダにはそれをおこなわなかった。このような処置は戦略的理由から思わしくないためであった。しかしオランダ政府は戦争状態の存在を認め日本に戦いを宣した。
 一月十二日、最初の日本軍が蘭印に上陸し、日本政府は余儀なく戦争するにいたったことは遺憾だとの声明書を出した。さらに同二十二日には東郷外相が第七十九議会においてオランダにより戦争を強制されたことは遺憾であったとふたたび表明、右戦争の目的は日本が共栄圏を第三国の侵害から保全する責任をはたすためであって、戦略上必要な全地域は日本に把握されねばならぬであろうと付言した。
 一方日本軍はタラカンを占領、油井の破壊を知り、ボルネオのパリックパパンの司令官に最後通牒を送り、油田が無傷で接収されなければ白人をみな殺しにすると声明した。ついで同市を攻撃、油井は破壊され、白人は殺された。1942年三月一日ジャワ上陸、バンドンに接近し、日本軍最高指揮官は、全オランダ軍が降伏しなければ同市を攻撃破壊すると公言した。かくて日本軍脅迫の下に降伏がおこなわれ、ジャワは完全占領とともにオランダ領インドの大部分もその後まもなく占領されたのである。
 
六、日本の占領と日本侵略の統一
 日本の侵略企図の完全描写は日本が軍事的侵略をもって併合しようとした方法の考察にまたなければならない。日本が占領後まずおこなったことは西洋出身官吏の罷免と婦女子を含むこれら国民の抑留であった。蘭印の所領は分割されて日本陸海軍の軍政下におかれた。あらゆる諮問会立法会は解散され、独裁的地方政治組織が取り入れられた。経済機構は完全に日本に掌握され、銀行は閉鎖、日本の銀行がこれに代わった。西欧諸国人の広範囲の私有財産が没収された。数十万のものが日本軍の奴隷的労働者として各地に送られ、彼らの大部分は食住医の不足で死んだ。
 日本崇拝を鼓吹するための『青年運動』を通じ全社会機構は厳格な日本の支配下に置かれることとなった。
 こうして日本憲兵による恐怖的支配が一年余の間に完遂されたが、全地域に対する指揮権が、東京にあったことはまちがいのない事実である。この目的のため1942年十一月大東亜省が設置された。1943年ビルマおよびフィリピンには名目上の独立が与えられたが、蘭印にはこのような処置はとられず日本の直接支配下におかれることが決定した。しかし戦争が進展し、日本の地位が危うくなるにつれて、小磯内閣は蘭印に対する政策を修正、1944年九月七日将来における独立を約束、1945年フィリピンを失い、日本と南方諸地域との連絡がまったくたたれた五月になって独立の処置にとりかかった。日本は降伏の報を秘密にして一週間のうちに所要の準備をし、独立が宣言された」
 つぎに婦人警察官ストルーカー女史が発言台に現われ、有田、松岡外相らの蘭印に対する非侵略意図披歴の公文書を提出、米国と日本の南方政策とがしだいに衝突していくいきさつを立証した。

                  フィリピンでの虐殺

 射殺、焼殺、殴殺、蹴殺 ……
 十二月十日オランダ証人ヴェールト氏の退廷したあと、フィリピン代表検事ロペス氏が立って、マニラを中心とするフィリピンの捕虜、一般抑留者、市民に加えられた残虐行為の立証が始められた。フィリピン残虐事件は、終戦後ただちに連合軍公報によって新聞にも掲載され、その後山下、本間両将軍のマニラ裁判によって世界の知るところであったが、国際検事団は他の地域における残虐事件と独立にこの問題をとりあげ、フィリピン自身の代表者をあげて、この責任を追及するという態度をとった。
 フィリピン残虐事件は、南京事件、タイ・ビルマ鉄道建設における捕虜虐使事件とともにこの東京法廷における三大残虐事件の一つであり、すでに山下、本間公判をはじめ、現地における軍事裁判でそれぞれ処断されている。しかしこれらの一兵士、一軍隊の行動も、指導者である東京の首脳部に責任があった、とする見地に立って訴追されたものである。この責任論についてカニンガム弁護人(大島担当者)は、「フィリピンは、陸戦法規の加盟国として名を連ねていないし、そのうえ犯罪が起こった当時フィリピンの宗主権というものは、まだ確立されていなかった。しかもフィリピンにおける犯罪は、米国議会によってつくられたフィリピンの法廷で、解決をみた問題であり、陸戦法規違反は、軍事的責任であり、政治的責任ではない」と抗議を申し立てたが、裁判長は「この裁判は山下、本間のとった行動についても、責任ありとして起訴されている被告を審理するのである」と異議を却下、一応責任論の性質をあきらかにした。
 法廷には、一枚のフィリピン全図と、虐待によって死亡した犠牲者表がかかげられ、気負いこんだロペス陳述の朗読がはじめられた。
 この統計によれば、フィリピンにおけるアメリカ軍人の犠牲者は、二万三千三十九人、フィリピン軍人二万七千二百五十八人、アメリカ市民五百九十五人、フィリピンの市民実に九万一千百八十四人
、総計十四万ニ千七十六人にのぼっていると示される。もとよりバターン死の行進にはじまる、日本軍降伏までの、直接戦闘による以外の犠牲者としてである。
 十日の法廷以外にロペス検事の召喚した証人は、一般人としての虐待経験者としてロス・バニオス収容所にいた妙齢(ミョウレイ)のワンダローフ嬢をはじめ、バターンにおける死の行進に参加した生存者ムーディ米軍参謀軍曹、ドナルドイーグル氏。パナイ島イロイロ収容所にいたフランクリン・エム・フリーニオン中佐、コレヒドール要塞生残りのモントゴメリー中佐、バターンの元参謀ガイ・H・スターブス中佐らで、これらの人々は、恐怖にみちた往時を回想しつつ、『信じられぬ日本の武士道』について、野戦軍のありとあらゆる蕃行、拷問、虐使の事実をあげていった。 
 しかし証人の口述以上に深刻な蕃行を再現したものは、うず高くつまれ、そして読まれてゆくいろいろの被害者たちの供述書であった。これらの書証には、山下公判で喚問された証人の尋問書もあり、中には、強姦されたフィリピン妻の記録もあったが、その尋問は、微に入り細をうがって 、ほとんど聞くに耐えないものが多く、公開の席でとうてい婦人の耳にしうるものでなかったが、裁判長はあくまで『事実』として、その朗読を要求、首切り、射殺、舌抜き、焼殺、目抜き、殴殺、蹴殺、およそありとあらゆる殺人の方法と、強姦、輪姦、死体凌辱、屍姦あらゆる情欲犯罪と拷問の方法が、いやというほど人々の耳へ伝えられた。
 なお、この書証中には、1945年ニ月二十四日マニラで、米軍の手に入ったといわれる岡田部隊の大隊命令があり、それには、
「フィリピン人を殺すのは、極力一ヶ所にまとめ、弾薬と労力を省くように処分せよ、死体の処理うるさきをもって、焼却予定家屋または爆破家屋にあつめ、あるいは河につき落すべし」
 とあって、米軍の前進と、ゲリラ部隊の蜂起に狂気になった、フィリピン最後の戦場の情景をほうふつさせているが、
「人肉を食っても、戦いぬけ、ただし友軍の肉をくったものは死刑に処す」
 との命をうけた柳沢エイジ元上等兵の口述書や、ニューギニアのアイタベ地区における支隊長の布告文によって、飢餓のせまった戦争の中で、原住民の人肉をくうのはもちろん、ついには友軍の戦友を倒しても飢えを支えようとした事実も公開された。

 聖パウロ大学の惨劇
 つぎにロペス陳述の要旨をかかげることによって、その事件がどのような性質のものであったかの片鱗を偲ぶこととしよう。この事件の全部を知ることはとうてい限られたスペースでははたせないからである。
「日本人の残虐行為は、一、個々の偶発的非行ではなく、集団的なこと、二、1937年の南京事件より1945年のマニラ事件まで八年間にわたり連続的であること、三、犯行の範囲は、ビルマ、マレー、蘭印、フィリピン、ニューギニア等地球の四分の一におよんでいること、四、犯罪者に将校下士官兵の別がないこと、五、犠牲者は、捕虜のほか老若男女すべてにおよび乳児さえも含んでいること。
 などにより特徴づけられている。日本の指導者は、権利を侵害された各国からの公式抗議に目もくれず、虚妄の宣伝として葬り去り、そして、告発も、調査もせず、犯罪者の処罰や、再発防止を怠り、これらの犯行を黙認してきたのである。
 フィリピンにおける日本軍の残虐非行により、十三万一千二十八人のアメリカ人およびフィリピン人が死んでいった。これには戦闘による死傷者数は含んでいないのである。これらの犠牲者は、1941年十二月から1945年八月までのあいだに日本憲兵隊、陸戦隊その他の軍人によって犯された。
 フィリピン非戦闘員虐殺のうち、もっともいちじるしいものは、マニラ市聖パウロ大学における八百人の男女子供に加えられたもので、彼らは五個のシャンデリアのもとの、卓上におかれた菓子にひかれて広間の中央に集まったが、一人の日本海軍兵士が紐をひくと、シャンデリアの中に隠されてあった数個の手榴弾(手投げ弾)が爆発し、建物の屋根を吹き飛ばし、広間にいた多数のものを即死させた。そしてかろうじて生存したものも、そこからとび出そうとして、機銃でなぎ倒されたのである。
 なお数分とかからない真似事の裁判ののち、約二千人の非戦闘員がマニラの北方墓地で首を斬られた。リサール博士の生誕地として、彼らの尊崇の地であるラグナのカランパノでは、、二千五百名の男女幼児が銃殺あるいは刺殺された。セブ島のボンソンの全住民は、村の教会に集合を命ぜられ、百人が殺された。残りのものは村中を追いまわされ、およそ三百名が家庭で、あるいは沼沢地で惨殺に遭った。
 パタネスのパスコでは、八十名の市民が捕縛され、垂木に吊るされたリ、ガソリンをかけられたりしたのち全部斬首された。タブアオのマティナ、パンギでは、百六十九名の男女子供が惨殺された。
 日本軍とくに憲兵隊はマニラ湾のサンディエゴ要塞を拷問室と、死の穴にかえてしまった。聖パウロ大学では、一人の赤児が放り上げられ、銃剣で刺殺された。ルソンのカパヨでは一フィリピン人が四ガロン入りの水を二回無理にのまされ、ふくらんだその腹の上で日本人が跳ねまわった。パタンガスのタナウアンでは妊娠中の一婦人が腹から胎児をえぐり出され胎児の首は斬られた。
 日本人の卑劣ぶりは、マニラが最後に迫った1945年二月ごろ絶頂に達した。ベイ・ビュウ・ホテルその他で社交界の知名な若い娘たちが多数暴行された。一人の娘は拒んだため首を斬られ、その死体まで暴行が加えられた。
 フィリピンの公私有財産の破壊もまた広範囲にわたり、その破壊侵害の合計は、十三億七千二十六万三千三百二十四ドル五十セントに達する。
 条約違反の事実──フィリピンにおける日本軍の暴行はヘーグ条約およびジュネーブ条約の違反である。条約違反の代表的なものは、降伏したものに対し、戦時捕虜の身分と待遇を与えなかったこと、戦時捕虜を公衆の好奇心、侮辱、非人道な待遇のままとしたこと、婦人に対し婦人相当の考慮をもって待遇しなかったこと、捕虜と、収容者に、その軍隊と国家に関する情報を暴露するよう強制したこと、衛生と健康を保証せずして仮小屋に住まわしたことなどである。
 フィリピンにおける捕虜に対しておこなわれた残虐なもっとも人を戦慄せしめるものは、バターン死の行進であって、1942年四月十日に降伏した一万一千人の米兵および六万二千人のフィリピン兵は、炎熱のもと、約百二十キロの道を、食物も水なく、七日ないし十一日間の行進を強要された。全行進がおわってからも、彼らはオードンネル収容所で虐待され、同年八月一日までに合計千五百二十二名のアメリカ兵と、二万九千名のフィリピン兵が死亡した。
 バターン行進に比較される事件は、ミンダナオにもあった。1944年十二月十四日パラワン島プエルト・プリンセサで百五十名の米人捕虜は、長さ七十五フィート、高さ四フィート、幅三フィートの三つの防空壕に押しこまれ、バケツに数杯のガソリンを注ぎ火を放たれた事件もある。
 またサンチャゴ要塞では、マニラ爆撃の際撃墜された三名の米人飛行士は刀で肩を刺されたり、火のついたタバコで焼かれたリ、指に穴をあけて針金でを通してつるされたりしたのである。
 これら、暴虐の正確な事実が正式抗議をもって日本政府と、その指導者に注意されてきたことを示そう。1942年十二月十八日ハル覚書は、フィリピンにおける劣悪な状態、バターン死の行進に抗議した。1943年四月四日のハル覚書では、日本政府に対し、米人捕虜にこれ以上の犯罪的蕃行を加えるならば責任者たる日本政府官吏に彼ら相当の罰を加えんとするものであることを警告した。
 また1944年九月十一日の覚書、同四月六日のアチソン覚書では、米人捕虜虐殺事件に抗議、日本政府は、この責任をまぬがれえないと警告がなされている。
 日本政府はこの抗議に対し、もっともらしい保証を与えたが、なお米比捕虜、抑留者が引きつづき虐待、殺害されたので、1945年三月十日、米政府はグルー覚書で抗議を行った。日本政府のもっともらしい言明の虚偽と偽善にとどめを刺すに足る一つの証拠は、1942年七月、東京から各地捕虜収容所長にあてた『白人俘虜を労働に使役し、もって収容所所在の住民をして日本人が白人に優るものなることを感得せしむる』ように命じた指令であった」
 
 


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