真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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東京裁判NO3 五十五の訴因と政治的免責

2020年07月10日 | 国際・政治

 東京裁判の問題は、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」という事後法で日本軍および政府の要職にあった人たちを裁いたから違法であるとか、戦勝国による単なる「復讐裁判」であるとかいうことではないと、私は思います。 
 すでに触れましたが、キーナン首席検事は、裁判に先立つ記者会見で”裁判の準拠法は文明国間に長年にわたっておこなわれた慣習法である”と明言しました。日本は成文法主義の国ですから、それが受け入れ難いのは分かりますが、アメリカは不文法主義の国であるとされているので、”裁判の準拠法は慣習法”であるというキーナン検事の主張を違法として退けることは難しい思います。

 だから、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」で裁くことが違法であると主張するためには、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」が慣習法として成立していないということを論証しなければならないと思います。でも、ドイツ軍のベルギー侵攻やルシタニア号事件のような軍事行動は戦争犯罪に当たるとして、ベルサイユ条約でドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の訴追を決定しているのです。ニュールンベルク裁判において「平和に対する罪」や「人道に対する罪」が出てきたのも、当時不戦条約やハーグ陸戦条約を成立させていた西洋列強にとっては、かなり一般的な考え方になっていたからではないかと思います。ニュールンベルク裁判を前にして、突然、国際軍事裁判所憲章(ロンドン憲章)が出てきたのではないと思うのです。

 それでもなお、罪刑法定主義をかかげて、キーナン検事の主張に抵抗することは可能かも知れませんが、それは、 キーナン検事の”被告らは本裁判の合法性に異議を申し出ているが、その異議はすべての文明の破壊を防止するため有効な手段を講じる文明国の能力に対するあきらかな挑戦といわねばならない”という主張に敵対することであり、将来ふたたび第二次世界大戦のような戦争が起こらないようにしようとする世界平和の流れに逆らうことになると思います。

 東京裁判が、単なる「復讐裁判」でないことは、個々の訴因に対する検察側の主張や日本側の弁論、被告の証言をみれば明らかではないかと思います。

 問題は、東京裁判が戦勝国アメリカの主導するものであったことだと、私は思います。現実的には無理であったかも知れませんが、ベルサイユ条約の発効日(1920年1月10日)には国際連盟が発足していたのですから、そうした国際機関が裁判を主導すれば、もっと世界平和にとって効果的な裁判ができたのではないかということです。アメリカによる原爆投下など連合国側の「人道に対する罪」も、取り上げることができたのではないかと思うのです。

 でも、連合軍総司令部が一般命令として公布した東京裁判の裁判憲章や検察側の裁判に臨む姿勢、個々の検事の主張、また戦争犯罪に関する考え方や訴因、それぞれの審理などにはそれほど大きな問題はなかったのではないかと思います。

 私が見逃せないのは、むしろ東京裁判が戦犯として起訴すべき人を、対象から意図的に外した問題です。例えば、アメリカの政治的判断で、当時日本の国家元首であり、軍の最高責任者であった天皇の戦争責任は、まったく不問に付されました。そのため、東京裁判や戦後の日本に様々な影響を与えたのではないかと思います。天皇の戦争責任は明白だという主張も少なくなかったということですから、本来、天皇を東京裁判の対象から外すということは、法的にはあってはならないことだったと思います。

 また、731部隊(石井部隊=関東軍防疫給水部隊)関係者の生体解剖や人体実験、細菌戦の計画・実行に関する戦争責任も、アメリカの政治的意図によって不問に付されました。「731」青木冨貴子(新潮社)は、その経緯を貴重な資料をもとに明らかにしていますが、それによると731部隊 (石井部隊)の研究者たちは、「九項目の条件」をのんで、人体実験や細菌戦に関わるリポートを作成し、アメリカ側に提出したということです。「九項目の条件」の中には、”日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる”とか、”報告はロシア人に対しては全く秘密にされ、アメリカ人にのみ提供される”とか”ソ連の訴追及びそのような(戦犯を問う)行動に対しては、絶対的な保護を受けるものである”という内容が含まれていたということです。
 この731部隊関係者の免責も、戦犯を裁く東京裁判や戦後の日本に様々な影響を与えたと思います。
 アメリカとの政治的取引によって、戦犯として裁かれるべき当時の731部隊研究者や日本軍関係者が、過去に蓋をしたまま生き延び、戦後、要職に就いたというのですから、それは、東京裁判の趣旨に反し、アメリカにとっても日本にとっても、大きな問題であったと思います。

 さらには、主要戦争犯罪人として逮捕され、巣鴨に監禁されていたA級戦犯十九名が、法廷に立つことなく、1948年(昭和23年)12月23日、突如釈放されたということも見逃せません。背景には「逆コース」といわれるアメリカの対日政策の転換があったようですが、このA級戦犯の釈放も、東京裁判の趣旨に反するものだったと思います。戦犯として処刑された東條英機の内閣で、商工大臣であった岸信介第五十六代内閣総理大臣が、釈放された十九名うちの一人であったということも、戦後の日本に重大な影響があったのではないかと想像します。

 そういう意味で、アメリカ主導の東京裁判に問題があったことは否定できないと思います。
 ただ、五十五の訴因に基づき争われた審理自体には、それほど重大な問題はなかったのではないかということです。
 下記は、「東京裁判 大日本帝国の犯罪 上」朝日新聞東京裁判記者団(講談社)から抜萃しました。
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                  第二章 市ヶ谷の熱い日々

 

 五十五におよぶ訴因
 どのような人が、どのような理由で罪に問われたのか。
国際検事団は五ヶ月にわたって起訴状を作成した。
起訴状は、序論、戦争犯罪問責の訴因、そして、その細目書である付属書からなっている。
訴因は三部に分けられている。
第一類 平和に対する罪
第二類 殺人
第三類 通例の戦争犯罪ならびに人道に対する罪

第一類 平和に対する罪
1 1928年(昭和3年)1・1から1945年(昭和20年)9・2までの共同謀議(東亜、太平洋、インド洋地域の支配を確保しようとしたこと)
2 同右(満州を支配することの共同謀議)
3 同右(全中華民国の支配の共同謀議)
4 同右(アメリカ合衆国、全英連邦〔大ブリテンおよび北アイルランド連合王国、オーストラリア連邦、カナダ、ニュージーランド、南アフリカ連邦、インド、ビルマ、マレー連邦および国際連盟において個々に代表されない大英帝国の他のすべての部分を含む〕、フランス共和国、オランダ王国、中華民国、ポルトガル共和国、タイ王国、フィリピン国およびソビエト社会主義共和国連邦に宣戦を布告し、または布告しない一回または数回の戦争を行う共同謀議)
5 同右(訴因1の地域と訴因4の国に対して戦争を行うための日独伊三国の共同謀議)
6 中華民国に対する戦争の計画準備
7 アメリカ合衆国に対する戦争の計画準備
8 全英連邦に対する戦争の計画準備
9 オーストラリア連邦に対する戦争の計画準備
10 ニュージーランドに対する戦争の計画準備
11 カナダに対する戦争の計画準備
12 インドに対する戦争の計画準備
13 フィリピン国に対する戦争の計画準備
14 オランダ王国に対する戦争の計画準備
15 フランス共和国に対する戦争の計画準備
16 タイ王国に対する戦争の計画準備
17 ソビエト社会主義共和国連邦に対する戦争の計画準備
18  1931年(昭和6年)9・18、中華民国に対する戦争の開始(満州事変)
19  1937年(昭和12年)七・七、中華民国に対する戦争の開始(日華事変)
20 1941年(昭和16年)12・7、アメリカ合衆国に対する戦争の開始
21 同右期日、フィリピン国に対する戦争の開始
22 同右期日、全英連邦に対する戦争の開始
23 1940年(昭和15年)9・22、またはそのころ、フランス共和国に対する戦争の開始(北部フランス領インドシナ進駐)
24 1941年12・7、タイ王国に対する戦争の開始
25 1938年(昭和13年)7、8月中にハーサン湖区域におけるソビエト社会主義共和国連邦に対する戦争の開始(張鼓峰事件)
26 1939年(昭和14年)夏期中ハルヒン・ゴール河区域における蒙古人民共和国に対する戦争の(ノモンハン事件)
27 1931年(昭和6年)9・18~1945年(昭和20年)9・2中華民国に対する戦争(満洲事変)
28 1937年7・7~1945年9・2までの中華民国に対する戦争(日華事変)
29 1941年12・7~1945年9・2までのアメリカ合衆国に対する戦争
30 同右期間のフィリピンに対する戦争
31 同右期間の全英連邦に対する戦争
32 同右期間のオランダ王国に対する戦争
33 1940年9・22、フランス共和国に対する戦争
34 1941年12・7~1945年9・2までのタイ王国に対する戦争
35 1938年の夏期中ソビエト社会主義共和国連邦に対する戦争(張鼓峰事件)
36 1939年の夏期中、蒙古人民共和国連邦およびソビエト社会主義共和国連邦に対する戦争

   第二類 殺人
37 1940年~1941年12・8までのアメリカ合衆国、フィリピン国、全英連邦、オランダ王国及びタイ王国の軍隊および一般人に対する殺人
38 同右期間の同右諸国の軍隊および一般人に対する同右責任
39 1941年12・7、真珠湾で平和状態にあったアメリカ合衆国の領土と艦船、航空機に対する攻撃、実行。キッド海軍少将のほか陸海軍将兵約四千人と一般人に対する不法な殺害
40 1941年12・8、マレー半島コタバルで平和状態にあった全英連邦の領土と航空機に対する攻撃、実行。全英連邦軍将兵に対する不法な殺害
41 同右期日、香港で同右責任
42 同右期日、上海で平和状態にあった全英連邦のべトレル号に対する攻撃、実行。全英連邦海軍人三名に対する不法な殺害
43 同右期日 フィリピンのダバオで同右状況下、アメリカ合衆国軍将兵とフィリピン国軍将兵と一般人に対する不法な殺害
44 1931年9・18~1945年9・2までの捕虜の虐殺
45 1937年12・12以降の南京市攻撃により目下その氏名および員数不詳の数万の中華民国の一般人および武装を解除された軍隊に対する不法な殺害
46 1938年10・21以降の広東市攻撃による員数不詳な多数の同右人員の殺害
47 1938年10・27の前後に漢口市攻撃による員数不詳の同右人員の殺害
48 1944年6・18前後に長沙市の攻撃による員数不詳の数千の同右人員の殺害
49 1944年8・8の前後に湖南省衡陽市を攻撃、員数不詳の多数の同右人員の殺害
50 1944年11・10前後に広西省の桂林、柳州両都市の攻撃による員数不詳の多数の同右人員の殺害
51 1939年夏ハルヒン・ゴール河地域で員数不詳の蒙古およびソビエト社会主義共和国連邦軍隊若干名の殺害
52 ソビエト社会主義共和国連邦軍隊の若干名の殺害

 第三類 通例の戦争犯罪および人道に対する罪
53 1941年12・7~1945年9・2までの間、アメリカ合衆国、全英連邦、フランス共和国、オランダ王国、フィリピン国、中華民国、ポルトガル共和国、ソビエト社会主義連邦の軍隊と捕虜と一般人に対する戦争法規慣例違反
54 1941年12・7~1945年9・2までの戦争法規違反 
55 1941年12・7~1945年9・2までの訴因53にある諸国の軍隊と数万の捕虜に対する戦争法規違反
 


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