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国際派日本人養成講座よりの転載です。

http://blog.jog-net.jp/201907/article_2.html

 

「この日本語に触れ、慣れていくうちに、非日系の子どもたちまでが、少しずつ内面から変化していくのです」

 

■1.「私は日本語の深さと美しさに気付き初めるようになりました」

 4月10日、東京の国立劇場で開かれた「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」で、安倍首相、北野武氏、京大・山中伸弥教授に交じって、ブラジルからやってきた日系5世の高校生・宮崎真優さんが、来場者1800人を前にスピーチをした。原稿も持たず完璧な日本語で、真優さんは両陛下にお会いした時の感激を語った。[1]

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皇后陛下は私に「日本語は大変ですか?ポルトガル語もがんばっているんですね。うれしく思います。日本語は漢字も言葉も難しいですけれど、がんばって下さい。」とおっしゃいました。次に天皇陛下が「夢が叶うよう応援しています。お医者さんになるんでしょう。」とおっしゃいました。・・・
日本語ってとっても難しいですね。きびしい先生のお叱りを受け、「日本語はいやだ。」と思うこともありました。でも両親は日本語を絶対に止めさせてくれませんでした。そして、最近、私は日本語の深さと美しさに気付き初めるようになりました。[2]
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 真優さんはブラジルの公学校「大志万(おおしまん)学院」で日本語を学んだ。「日本語の深さと美しさ」を教えてくれた「きびしい先生」とは、創立者・川村真倫子先生のことだろうか? 


■2.『人はみな言霊(ことだま)の幸(さきわ)う光』

 真優さんのスピーチの4日前、筆者は川村先生と東京でお会いしていた。拙著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』[a]で、ブラジルから来た生徒たちが特攻隊員の遺書を見て綴った感想文を引用させていただいたご縁からである。

 川村先生は昭和3(1928)年生まれというから、91歳のご高齢だ。そんなお年でブラジルから地球を半周して日本までこられ、日本では沖縄も含め各地を飛び回られた。そのお元気さには驚かされた。

 先生とお会いしたのは初めてだったが、戦前の日本人の凜とした姿勢を感じた。評論家・大宅壮一が取材旅行でブラジルを訪問した際に、「ブラジルの日本人間には、日本の明治大正時代がそのまま残っている」と語ったそうだが[3, p10]、その言葉通りだ。

 

 



 その際にいただいた『人はみな言霊(ことだま)の幸(さきわ)う光』[4]という美しいタイトルの御著書を読むと、川村先生がどのような苦労を重ねて「日本語の深さと美しさ」をブラジルの子供たちに伝えてきたのかが分かる。そうして地球の裏側のブラジルで継承されていた我が先人達の「言霊の幸う光」を、真優さんが深く美しい日本語のメッセージとして届けてくれたのである。

 

■3.「あまてらすおおみかみさまだ!」

「日本語には、よき地球人として生きる智恵のすべてがある」とは、川村先生が学校教育の現場で、子どもたちと共に喜び、笑い、悩みながら到達した真実だという。

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 私どもの学校では、日本で使われている国語の教科書を使用しています。そこにあるのは、美しく、正しい本来の日本語の姿です。ページを繰ると、美しいリズムがあり、音の流れがきこえ、夢のある情緒豊かな言葉が並んでいます。どのページにも、驚きがあり、感動があります。
この日本語に触れ、慣れていくうちに、非日系の子どもたちまでが、少しずつ内面から変化していくのです。[4,p4]
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 具体例を見てみよう。1953年に最初の日本語学校「松柏(しょうはく)塾」を開いた時に、戦前の国語教科書を使い始めた。戦後の外国人のための日本語教科書は文法をことさらに意識したり、ぎこちない日本語が入っていたりして、川村先生の目指す「美しい日本語」から遠ざかっていたと思えたからだ。周囲からは古臭いと揶揄されたが、こんな一節があった。

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「あさのひかり、おはよう! おはよう! みんなともだち」

 日本語の教科書は、まるで一つの映像を映し出すように、人としての大切なことを、子どもたちに優しく語りかけてくれます。・・・

 言葉を覚えながら、太陽の輝きや木々のたたずまい、水の流れを感じ、その生命と交わす挨拶を覚え、人と仲良くすることを覚える。日本の国語の教科書は、人生の生命そのものなのです。[4, p27]
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 こういう国語教科書で学んだ生徒の一人が、日本研修の際に伊勢神宮で早朝参拝を行った時、御社の後ろから朝陽があがっているのを見て、突然、「あまてらすおおみかみさまだ!」と声をあげた。

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 これにも大変驚きました。太陽が天照大神様だと、誰かが教えたわけではありません。神話の中で、子どもたちはその存在は知っておりましたが、それが太陽と結びついたのは、ブラジル人である彼らの豊かな感受性によるものでした。

 日本では、古くから天照大神を日の神として祀っています。日本人は太陽のことを、親しみを込めて「お天道様」と呼んできました。昔の子どもは、何か悪さをすると、「お天道様が見ているよ」と、叱られたものです。そこには、大自然をつかさどる天への敬意が込められています。その話をどこかで聞いたわけでもないのに、子どもたちは自らそれを感じたのです。
 伊勢神宮を包む、非常に静かな、美しい自然が語りかける言葉がこどもたちの心に届いたのだと思います。[4, p126]
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■4.「日本の神様は大宇宙なんだ。そして、日本人はすっぽり恵みの中に入っている」

 また別の年の研修旅行では、早朝参拝の帰り道に、鬱蒼と茂る杉の間から、霧の間を通って光の筋が差し込んできた。まさに天から降りてきた光の筋だった。子どもたちもその光に驚いた。その晩の反省会で、一人の生徒がこう言った。

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「今日、分かったよ。日本人の神様は大自然なんだね。日本の神様は大宇宙なんだ。そして、日本人はすっぽり恵みの中に入っている。日本の神様はすごい神様なんだ」[4, p125]
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 川村先生はこの発言に驚いた。彼らは一神教であるカトリックを信仰しているが、もの言わない自然が自分たちに語りかけてくる言葉を聞き取ったのである。

 川村先生は「どんな物にも、どんな道具にも、神様が宿っているから大切に」と教えていたが、カトリックで神様は一人と教わってきた彼らには意味が分からなかった。それが、この時の経験から「自然すべてが神様なのだ」と感じることができたという。

 サンマリノの駐日大使マンリオ・カデロ氏は日本滞在40年以上の間に多くの神社を参拝し、御自身はカトリック教徒だが、母国でヨーロッパ最初の神社を建てた。そこでは日本流のお祭りも開かれ、「神道が自然崇拝の営みであって、宗教と両立するものだ」という事が住民の間でも受け入れられつつあるという。[a]

 それと同じ事を、ブラジルの高校生たちも感じとったのである。「あさのひかり、おはよう! おはよう! みんなともだち」とか、「お天道様」などという日本語を学んでいると、自然とこういう感性が育っていくのではないか。


■5.「戦争は人間から善意を奪い、弱肉強食の獣に変えてしまう」

 川村先生は1928(昭和3)年、サンパウロ州で移民二世として生まれた。父親は三重県桑名市で大豆や小豆を商う店を開いていたが、店を妻の弟に預けて、ブラジルに渡った。1941(昭和16)年3月、小学校卒業を期に、川村先生は母親に連れられて、一旦、故郷に戻った。82歳になる祖母の世話をするためだった。

 二学期に入る頃、父親から「大至急、帰ってこい」との手紙が届いた。日米で戦争が始まるかもしれない、との噂が飛び交っていたからだ。しかし、もう最終便が神戸港を出た後で、次の船はいつ出るか分からないという。

 その年の12月に大東亜戦争が始まり、1年のつもりで日本に来た川村先生は、ブラジルに帰る道が閉ざされてしまった。そのまま日本で中学校から高校へと通った。戦争末期には四日市の軍需工場で学徒動員として働いたが、空襲が定期的にやって来るようになった。昨日まで一緒に学んでいた友人が姿を見せなくなったり、男子生徒が特攻隊として志願していった。

 ある時、看護師の手伝いをしていると、空襲警報が鳴り響いた。いつも訓練の時に飛び込んでいた防空壕に入ろうとした時、なぜか「入ってはいけない」という胸騒ぎがして、とっさに遠くの別の防空壕に飛び込んだ。その途端、「ここは個人の防空壕だ。よそ者は出ていけ!」と怒鳴られた。今まで親切で優しかった日本人の顔が、この時ほど恐ろしく見えた事はなかった。


■6.「この悲惨な現実を繰り返さないために、後世へ伝えよ」

 空襲が終わり表に出ると、いつもの防空壕は直撃弾を受けて壊滅していた。あたりにはちぎれた手足が散らばっていた。ここに逃げ込んでいたら、命はなかった。とぼとぼと歩いていると、小さな女の子が倒れていた。死んでいるのか、生きているのか分からなかったが、無感動で助けようともしなかった。

 戦争は人間から善意を奪い、弱肉強食の獣や感情のないロボットに変えてしまう。こんなにまで人間の心を蹂躙する戦争を、二度と起こしてはならない、そんな考えを朦朧とした意識の中で反芻していた。

 その時、一筋の光が心の中に差し込んだような気がした。奇跡的に救われた命は、もしかしたら、この悲惨な現実を繰り返さないために、後世へ伝えよ、と神様が残してくれたものではないだろうか。これが教師の道を志したきっかけとなった。

 戦争が終わり、母親はブラジルの父親に手紙を書いた。「日本は戦争に負けました。私たちも、もう帰ってもよいでしょう」。それに対する父親の返事は、予想もしないものだった。「日本は負けていない。そんなことを言う者は、帰ってこなくともよい」

 父親は父親でブラジル政府の迫害を受けながらも、日本の底力を信じて耐え抜いていた。「確かに日本は戦争に負けた。でも、心の中まで負けてしまっては、日本民族はだめになってしまう。日本人はどんな時にも負けないとの気概で、本当に平和な世の中を作っていかなければならないのだ」

 川村先生はそのまま日本に留まって、女学校を卒業し、三重師範学校女子部に進んだ。ブラジルからの仕送りを失った母親は夜遅くまで内職をした。「私も、働きに出ようか」と言っても、「あなたは勉強しなさい。それがあなたの使命です」と許さなかった。

 師範学校を卒業し、3年間三重県内の中学校で教えた。昭和27(1952)年、日本とブラジルの国交が回復し、父親から「帰ってくるように」との手紙が舞い込んだ。渡航費も副えてあった。川村先生と母親は、11年ぶりにサントス港に降り立った。迎えに来てくれた父親と再会して、二人はむせび泣いた。


■7.「優しさ、和やかさ、繊細さ、そういった美しい日本の心を伝えていきたい」

 当時、ブラジルには40万人の日本人が住んでいた。その半数以上が日系ブラジル2世で、言葉を覚える大切な時期に日本語教育が禁止されていたため、日本語が話せない人が増えていた。

 父親はそういう子どもたちに日本語を教えるようにと勧めてくれた。かつて学んだ日本語学校「大正小学校」の恩師を帰国報告に訪ねた時、「別の場所に赴任することになったので、今までやっていた日本語学校塾の生徒を預かってくれないか」と頼まれた。川村先生は喜んで引き受けた。

 1953(昭和28)年、川村先生は実家の居間で日本語教育を始めた。その時、ひとつ心に決めていたことがあった。日本語の奥に秘められた優しさ、和やかさ、繊細さ、そういった美しい日本の心を伝えていきたい。したがって、堅苦しい日本語の文法は後回しにしてでも、日本語に触れる感動や喜びに満ち満ちた授業にしようと、決意していた。

 川村先生の日本語塾は、ブラジルや日本の多くの人々に支えられて、成長していった。この学校で「日本語の深さと美しさ」を学んだ生徒たちの代表が、冒頭に紹介した宮崎真優さんなのであった。


■8.「日本語教育こそ、最高の平和教育である」

 川村先生の「日本語の奥に秘められた優しさ、和やかさ、繊細さ」を通じて平和の尊さを伝えるという志は、現代の日本人にとって貴重な示唆を与えている。真優さんはスピーチの中でこう語った。

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 日本語をとおして私は思いやりの心、優しさを学ばせていただいています。素朴で優しい心を持った医者になり、たくさんの人を助けたいです。また、日本とブラジルの架け橋になりたいと思っています。[2]
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「素朴で優しい心」とは我が先祖たちが「清明心」と呼んで大切にしてきたものだ。縄文時代以来、1万数千年の間、各地から日本列島に流れ込んできた様々な人々が、豊かな自然の恵みに感謝しつつ、仲良く平和な暮らしを続けてきた。その過程で清明心も育っていった。このような清明心を世界の人々が持てば戦争も起こらないだろう。

 清明心が日本語の「優しさ、和やかさ、繊細さ」を生み、その美しい日本語が次代の人々の清明心を育んでいった。「日本語教育こそ、最高の平和教育である」と川村先生が言うのはこの事だろう。

 この清明心を戦後の日本人は忘れ去っていたが、地球の裏側の同胞たちがこの文化伝統を大切に護ってきた。色鮮やかなステンドグラスのように世界の様々な文化が共存するブラジルにおいて、この日本人の心は「ジャポネーズ・ガランチード(日本人なら大丈夫)」と尊敬されている。これこそ、国際派日本人として目指すべき姿だろう。

 

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