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「蛙はどこに飛び込んだか」 高橋透水

2020年04月28日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 芭蕉の禅的な宇宙感
 
 数年前になるが、ある句会の吟行で名勝・清澄庭園から深川の芭蕉所縁の地を訪ね、『芭蕉記念館』で句会を行った。
 清澄庭園で〈古池や蛙飛び込む水の音〉という句碑に出会い、また芭蕉稲荷神社では大小の蛙のオブジェと対面し、『芭蕉記念館』では芭蕉遺愛の石蛙とも対面した。
 芭蕉というと誰もが知っているこの〈古池や蛙飛び込む水の音〉であるが、これは貞享三年(一六八六)、芭蕉庵で『蛙の二十番句合』が興行された際の作であることが知られている。蛇足になるが、上五を弟子の其角が「山吹」にしたらどうかと師に進言した。古今集の序に「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声聞けば生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」が前提にあったろうし、同じ古今集の〈蛙なく井出の山吹ちりにけり花の盛りにあはましものを〉(詠人しらず)が念頭にあってのことだろう。が、芭蕉は「古池」こそこの句に相応しいという其角の進言を退けた。
 では一体この「古池」とはどこにあったのか。蛙でなく河鹿でないのか。いや蛙としても一体何匹だったのかと議論は尽きないが、私なりに整理してみると次のようなことが考えられる。まず、飛び込んだ場所であるが、
  一、一般的な田圃・沼・川など
  二、鯉屋(杉山)杉風の生簀。あるいは芭蕉庵近くにあった古池。
  三、眼前や近くにある池でなく、架空・想像上の池。(芭蕉の脳裏にのみ存在した)
 次に蛙は作句時に実在したかであるが、
  A、存在は十分考えられる。当時蛙などどこにでもいた。
  B、芭蕉庵の近く。蛙合せの席で芭蕉も弟子も蛙の声を実際に聞いていた。
  C、そもそも蛙など存在せず、芭蕉の頭のなかで飛んだのだ。
 Cの説が観念的であるが、鑑賞する上で共感できる。古池は芭蕉の頭の中の宇宙であり、ふと現れた想像上の蛙がその宇宙へと飛び込んだのではなかろうかと思うのだ。
 また蛙は一匹だったのか複数だったのかの議論では一匹説が圧倒的に多い。もちろん複数説も一度に何匹というのでなく間歇的な状態だろうとし、共通しているのは静寂→音→静寂の世界を表現したとしていることだ。
 私は二、三匹の蛙が連続的に次つぎに飛び込んだのではと考える。そのほうが協和音の効果があり、静寂感も一層広がるのではと思う。それにこの句は「古池へ」でも「古池に」でもなく、まして「古池の」でもない。これも芭蕉の禅的な宇宙感を感じさせる。いずれにせよ、芭蕉はそれまでの鳴く蛙から飛ぶ蛙へと俳諧に新世界を開拓して見せたのだ。芭蕉のいう「新しみは俳諧の花なり」が十分発揮された句と私は思う。
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