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山口誓子の一句鑑賞(12)高橋透水

2018年12月16日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
 悲しさの極みに誰か枯木折る 誓子

 昭和二十二年九月作。句集『青女』所載。
 誓子の悲しみは、いわば諦念からのものだろう。俳友にめぐまれ、病気療養中といえ、人並みの生活はできたはずだ。いや句作の時間は十分あり、療養中の環境にも恵まれた。孤独にも慣れきっていた。客観的に自己を見つめ、分析もできた。鑑賞句は、ふとした悲しさと枝の折れる淋し気な音との共鳴があったのだろう。誓子にとって、「悲しさ」は体の一部だった。それが共振したのだ。
 枝の折れる音に誘発されてのことであったが、悲しみの極みは、悲しみが他と共有できたとき、最高点に達したということだろう。
 自選自解によれば、「悲しいことがあった。いかなる悲しさか、ひとにはわからぬが、私のこころに悲しいことがあって、それが極まっていた。慰めるひとはなく、私はひとりその悲しみに堪えようとしていた。」「そのとき、外で枯木の枝の折れる音がした。誰かが折ったのだ。その音を聞いて、私は、悲しみに堪えられなくなった」とある。
 誓子は自己の悲しみや悲しさを客観的に観察し冷静に俳句に表現している。誓子の悲しみは、日常的なものだったが、一方では俳友にめぐまれ、病気療養中といえ、人並みの生活はできたはずだ。いや句作の時間は十分あり、療養中の環境にも恵まれた。孤独にも慣れきっていた。持病的な悲しみであったが、客観的に自己を見つめ、分析もできた。
 それは生い立ちや環境が強くかかわっている。特に少年の眼を通して見た士族出身ながら志を得ない憤りと悲しみを秘めて鬱屈した祖父像が、誓子の心の深淵にあるようだ。
 悲しさの背後にあるのは、すべて暗さが要因でない。初期の俳句の暗さは、かならずしも、心情の反影からだけとは言えない。作品にするには、感情は抑制され客観的な視線が働いている。鑑賞句は自己の悲しさが他人の悲しさと共鳴した、その瞬間をとらえたが、ときには誓子は自己の悲しみや哀しさを第三者的に観察し冷静に俳句に表現するのでる。


俳誌『鴎座』2018年10月号より転載
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