~プロローグ:刈谷へとたどり着き~

2017

2016



もう鬱レベルです。もう無理、もう無理、行きたくない、それの連続。

サッカー自体は楽しくできていた。住んでいるところもいい街で、生活にもさほど
困ってもいなかった。でも仕事がキツかった。人と関わりあいながら仕事がしたいと
望む彼にとって、機械の前に立ち機械と向き合うそれは、性には全く合わない。
精密機器の部品を造っているのだが、どこのパーツなのかよくは解らない。

次のプレー先を求めてさまざまなチームの練習会に参加した。FC今治、レノファ
山口等々。しかし、なかなか新天地は決まらない。そこで彼はチームメイトだった
藤本陽平に連絡をとった。藤本は既にFC刈谷への入団が決まっていたのだ。

「俺のことFC刈谷の人に言ってもらっていいかな?」

すると、当時FC刈谷を率いていた監督、石田学から「じゃあ一回見てみたい」と
知らせが届く。藤本陽平の部屋に居候する格好で一週間程練習に参加して、
プレーへの手ごたえを十分感じることが出来た。テストの結果は合格。かくして
FC刈谷に原田昂輝という選手が誕生した。

入団一年目、刈谷の最終成績は地域CL決勝4位。1次リーグ最終戦、松江シティとの
闘いを安藤大介の勝ち越しゴールで制し、ワイルドカードを奪っての決勝リーグ進出。
しかし、決勝リーグは全敗した。原田は膝のケガもあり、チームに十分な貢献をする
ことが出来なかった。

二年目のシーズン。この年は東海社会人一部リーグを13勝1分け無敗で優勝して
地域CLへの出場切符を得る。原田は1次リーグ全試合フル出場。三試合連戦は
やはりフィジカルに対するダメージは過酷だった。最終戦のときには体の感覚に
異常を覚えるほどの極限状態に陥る。三菱自動車水島、アルティスタ東御(※1)、
コバルトーレ女川と三連敗を喫し、ここでJFL昇格への道はまたしても途絶えた。

在籍三年目はリーグ戦2位ながら、輪番枠により地域CLへ滑り込んだ。初戦は
女川に敗れたものの2戦目は十勝FC(※2)に勝利して、最終戦に望みを繋ぐ。
しかし、テゲバジャーロ宮崎に敗れて昇格を逃した。

ステップアップのことは前々から思い描いてはいた。練習試合で実際にプレーした
ときの感覚からすればJ1・J2はとても歯が立たないレベル、J3はギリギリ何とか
戦える。自分を拾ってくれたこのチームでステップアップしたかった。だけど、選手と
してのピークでその舞台に立つことはもはや叶いそうもない。

2017シーズンを以って原田は選手生活から引退した。プレーヤーには別れを告げた
ものの、刈谷でのチームメイト、特に寮が一緒だったメンバーたちとは今でもたびたび
連絡を取りあう仲だ。藤本陽平、伏木一紘、櫻岡徹也、久利研人、渡邊隼、・・・。
つい最近はアレックス(竹之内ヒロユキ)とも連絡をとった。吉岡勝利とは同じ指導者
同士としての話もする。ずっと繋がりは続いている。

選手を引退して間もなくのこと。原田はFC刈谷が練習場として借りていた、ブリン
カールの社長に「コーチとして働かせてほしい」と頼みこんだ。会社が大きくなろうと
するタイミングと重なり、「人数的にギリギリだけどいいよ。」と入社に至る。かくして、
指導者としての生活が始まっていった。


(プロローグ了、前編へ続く)



【脚注】
(※1)現:アルティスタ浅間
(※2)現:北海道十勝スカイアース


 Text & Photo ;中村マサト(フリーランス)

 ※本稿は原田昂輝氏への取材(2020年2月)をもとに構成したものです。