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(今回の記事は、いわゆる閲覧注意と言うものになってしまうと思います。
人間の暗部を余り見たくない、、という方は御覧になられないことを御勧め致します。)




 私の窮地を救うべく大財閥令嬢は仙台を訪れてくれました。
そして必死の交渉を団体と行ってくれたのです。それは約四ヶ月もの長さに及びました。


その舞台となったスイートルームのある高級ホテル。

仙台でも有数の高級ホテルの下を通る時、、ひたすらに感謝の念を覚えたものです。
建物を見上げ、「世の中には綺麗な物語がたまにはあるものだ・・。」、といい歳をして思ったりもしました。



この事件は背景が非常に大きく、、何度も言って来ましたが、記せませんことが沢山あるのです。
ですから、、この令嬢物語もまた書けませんことだらけのものとはなってしまいます。

それでも端折りながら書き続けさせて頂きますと、、



とにかくここの団体の抵抗は物凄く、最後には某有名企業まで出て来て彼女に圧力を加え始めたのでした。

刀折れ矢尽きた令嬢はここからの撤収を余儀なくされ、それに対し感謝こそすれ、恨みなど当然のことながら私にはありませんでした。
彼女は恐らくやこの交渉で数千万円は費やしたことでありましょう。




令嬢撤収の後も色々な事がありました。

その中、自衛・反撃として私が取った行動で、彼らにとり大打撃となることが起こりました。

すると、、交渉時の相手となった団体幹部的立場の者が令嬢との交際を始めたのです。

彼らが謀略として、私への復讐として、それを始めたのは確かな事です。
それでも、約二十歳は年下であろう幹部に(夫もいる)令嬢が恋心を抱いたのもまた事実ではあるのです。


彼らはありとあらゆる手段、、『鬼畜』とはかくやの手段を彼女に講じて行きました。

交渉が始まってから八ヶ月すらも経ずして、、この男、私と母を生き地獄に落とし続けている集団の一員である在日の男性と、令嬢は(実質上の)結婚を致しました。



実は令嬢と私との間には、この時高校一年生になる娘が居ります。

交渉が始まったのが三月。幹部と令嬢が結婚したのが十月。私が娘と邂逅したのは三月末のことでした。

それまで一度すら見たことのない我が子を初めて視る者の想いは御想像に御任せ致します。
この時の娘の実に寂しそうな表情は今に至るも忘れ難いものがあります。



結婚式は、どうも拙宅からは徒歩七分程の某所で行われたようであります。勿論、娘も出席したのでしょう。
この場所は、私が娘と生涯一度きりの邂逅を果たした地から僅かに徒歩五分にも満ちません。

そして二人が甘い新婚生活を送った場所は元々令嬢が住んでいたマンション内の別の一室でもあり、私はここに令嬢がいることを以前から知って居りました。

この高級高層マンションは、娘との邂逅の場からは徒歩二分足らず、拙宅からは徒歩約五分、、拙宅からその姿がよく見える仙台一の高級マンションではありました。




令嬢が結婚した年。その同じ年の暮れ。

彼女が結婚相手と知り合ってまだ十ヶ月の暮れに、令嬢は娘を仙台に呼び年末年始を楽しむこととなりました。


十二月二十八日の夜、、正月の準備の為にこのタワーマンションの直下を私は歩いて居りました。

この時、、令嬢の夫(並びに令嬢)は、私と母を拷問することを業とする自分と妻と(娘と)の幸いを、私に見せ付ける事をしたのです。



彼女が苦しんで苦しんでし、大変な恐怖を味わったこともよく解って居りました。 
そして遂に令嬢が転び、、敵方、私や日本人を苦しめんとする相手と結婚するに至った経緯もよく解って居りました。

私としては淡々と通った積もりであります。



この同日十二月二十八日。

令嬢の腹違いの弟であり、某大企業の社長でもあり、この事件の主犯の一人でもある彼に破滅が訪れ始めたのでした。




 
年が明け、、一月は六日七日八日の三連休。彼女は娘を連れて仙台を再び訪れました。

 
拙宅マンションのごく側近くにまで娘と共に来てくれたのでしたが、、それに関心が起こることも殆ど私にはありませんでした。





この団体。
そのバックの某外国強大勢力。

私の娘のことや何もかも承知した上で、、彼らは己達の野望・欲望の為に、 日本人である私の人生に対し『徹底的な』破壊を行って来たことではありました。


令嬢は、私の娘の母親でもある彼女は、、覚醒剤を打ちながら日々変わる相手と肉体的交渉を持っていたのでした。


──「ダンテの地獄編」もかくやの或る名家の物語








 《付記》

>令嬢は、私の娘の母親でもある彼女は、、覚醒剤を打ちながら日々変わる相手と肉体的交渉を持っていたのでした。

この部分を筆頭に本稿は一部伝聞情報を含み、真実性を必ずしも担保できぬ記述があります。