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気の毒としか他に言い様のない母の最後の姿は、永遠に私の脳裏から去ることはないでしょう。


小さな家庭の物語程尊いものはない、と私は思って居ります。

その小さな家庭が一杯集まった存在である国の仕事を(おこがましいのですが、)したいと思い、高校時代には高級官僚の道を進路として選択も致しました。


そんな私にとって、、この(大変に大きな背景を持つ)事件もまた、あくまでも拙宅と言う小さな問題に還元される部分が大きくあります。


母がなぜああ言った姿にならなければならなかったか?
母に自分には一体どう言った責任・原因があるのであろうか?

この疑問は私の中で永遠に続いて行くことでしょう。



私の母、と言うよりも「一人の人間」が徹底的にその尊厳を奪われた状態の中、亡くなって行きました。

(当然の事ながら様々な評価軸が人にはあるのであり、)つまらない話であることは百も承知の上で、(息子の力不足ゆえになぶり殺されて行った)母に対する鎮魂として、以下あえて記させて頂きたいと思います。

つまらない事であることは、小さな小さな存在であった母にとって、むしろ相応しい話でもあると思います。 



ある非常に特殊な病気に私は中学二年生の時に罹り、正に絶望の未来を突きつけられました。

この病は神経系統をやられる為、とにかく机に向かって十五分と勉学を続けることができませんでした。
そして、ある段階から肝心の試験会場ですら、(どんなに頑張っても)甚だ能力を発揮することが出来なくなってしまいました。

周りの人達が全員不思議がる人生へ進むことを、その後私は余儀なくされました。


大学受験に失敗した時、高校二年・三年時の担任の先生が「君がなぜ?」と繰り返し絶句していらっしゃったのは、今でも耳の奥に鮮明に残って居ります。

一種嫌味な話なのですが、、高校三年の最後の進路面接で先生が母に、「○○君は寝ていても東大法学部に受かる生徒だから、絵でも描いてゆっくりとやるといいでしょう。」と仰ってくださったのは、母の生前に出来たごく僅かな親孝行の一つとなりました。

(この話は私の行動記録の中で、確実に母が言っていることですから、事実ではあります。)

担任が「東大入学より若干難しい」と仰った都内の名門高校に高校から入学を致しました。

そこでの(クラス五十人定員の)高校一年次の席次は、、一学期五番でした。

どんな有名模擬試験よりも、なぜか(この時の席次が)入学予想に高い精度で繋がると言う事で生徒皆必死になって受ける高校三年中期の校内模擬試験では(学年四百人中)二十三番でした。




苦しいか細い声でたどたどしく呼ばれるので、母の寝室に向かうと、、「苦しい」とだけ虚ろな目で訴えられることが、最後の一日二日には日に数回ありました。

これが母と交わした生前最後のまっとうな会話達とはなりました。


(呼吸困難にさせられる等で)余程苦しかったのでしょう。
何度直してあげても布団から(身をよじり動いた果てに)はみ出てしまい、母の頭だけが布団から落ちてしまうので気の毒でした。

勇気を振って一気に体を持ち上げ母を布団に戻してやる時、「痛ぁ──い!」と正に絶叫を大声で毎回して居りました。  (やせ細り切った体に骨でも触ったのに違いありません。)




本稿を亡き母への小さな小さな鎮魂として捧げたいと思います。

(事件中、様々な方々に御世話になりました。それらの方々に母に代りまして深く御礼申し上げます。)