小説　西寺物語　2話　九条葱が西寺を救った・音川伊奈利・女装小説家　オカマのイナコ

小説　西寺物語　2話　九条葱が西寺を救った

　守敏の氏は橘氏で俗名は敏光、768年3月2日綴喜郡井手村梅宮神社宮司橘広光の三男として生まれた。この梅宮神社は橘家ゆかりの神社で東大寺にも縁があり守敏15歳の時に東大寺別当だった権操の弟子となっていた。権操の自坊は岩渕寺で守敏はここで15年の修行の後に桓武天皇から官営西寺造寺司を命じられた権操僧正とともに西寺建立の最高責任者になっていた。

　空海は布教と空海ゆかりの寺の建立をと都の洛中や洛外の新しく出来た集落を勢力的に訪れていたが、この九条村での布教に成功して九常寺を建立して農民85世帯を天台宗の信者にした。これはいずれ空海が立ち上げる真言宗の布石第一号の寺になるに間違いはないと思っていた。

　さらにこれは奈良仏教の守敏から寺を一つ勝ち取ったことになるが、空海としては初恋の君である常吉の娘の「お種」を反対に守敏に取られたことになる。この神も仏の情もない無常な仕打ちに打ちのめされて空海は比叡山を下りて布教と修行の全国行脚の旅に出ている。しかしながら、もしこの時に空海はお種を手に入れて入れば九常寺の住職となりお種との甘い新婚生活に甘んじていたかも分からない。そうなればその後の遣唐使派遣、官営東寺官主、弘法大師拝命などの輝かしい栄光の歴史はこの九条村で立ち消えていたかも分からない。

　西寺造成地に各伽藍の予定区画を示す杭が打たれ縄を張る作業が続いていた。図面に依ると南大門と金堂前広場の五重塔の反対東側に西寺を守る松尾神社、東寺を守る稲荷神社の社殿の建設予定地が並んであった。南側の稲荷神社の敷地にはもう整地がされて社殿の資材である根石や礎石、それに木材が各地から運ばれて山積みにされていた。一方、北側の松尾神社の敷地はまだ手付かずで水溜まりが出来ている。

　守敏はこのことだけを見ても地域密着の稲荷神社の財力と労役動員力が分かる。ましてや本体の東寺の工事もこれと同じで西寺よりは大幅に進捗していた。その稲荷神社の予定地に青い長い茎の先に白くて丸い花のような物が付いた植物を発見していた。守敏はこれが青葱(日本固有の青太葱)だということを知っていた。守敏がまだ岩渕寺の修行時代に布教で訪れていた浪花難波村の農民からこの葱と鴨の肉で煮た鴨鍋をご馳走になっていたからだ。この葱は稲刈りが終わったあぜ道に自生して真冬でも枯れなかった。難波村の農民はほしかったらいつでも手に入るから栽培してこなかった、ましてやこんな物を栽培しても売れないと思われて世の中には広がらなかった。

　守敏はすぐに九条村長の常吉や農民を岩渕寺に集めてこの葱を栽培するように指導していた。稲の刈り取りの後は年貢の他に15歳以上の成人男子には公共土木工事の労役が待っていた。この労役は年に60日と決まっているが、台風や大雨などで災害発生時はさらに30日を追加される場合の年もあった。この葱の栽培は男子が労役期間中であっても女、子供でも簡単に栽培する利点もあったので常吉もすべての村民に葱の栽培を命じていた。

　この葱の種は稲荷神社の敷地から発見されたが、葱の種が土木資材などと一緒にどこからか運ばれて来たのは稲荷大明神の御利益の葱であるとして稲荷信仰に拍車がかかり西寺境内にある稲荷神社を「九条葱稲荷大明神」として九条村の村社としていた。またこの葱を発見した守敏に対して感謝を表すために西寺の建設工事に年に30日の労役奉仕をすることを村民すべて一致で決めていた。これは九条村は稲荷神社の氏子のために公共労役60日は東寺の造営工事に参加しなければならないが、さらに30日もの労役は半端ではなく守敏への信頼が厚いことが分かる。この労役によって大幅に遅れていた工事も順調に進捗していた。