醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1153号   白井一道

2019-08-12 11:04:29 | 随筆・小説



   ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿   芭蕉  元禄7年



句郎 「ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿」元禄7年。『杉風宛書簡』。
華女 芭蕉はどこでこの句を詠んでいるのかしら。
句郎 奈良、猿沢の池のほとりで詠んでいる。
華女 今でも奈良公園には鹿がいるわね。昔から奈良の街には鹿がいたのね。
句郎 奈良時代の昔から奈良には鹿がいた。
華女 なぜ、鹿が奈良の街中にいるのか不思議ね。
句郎 710年(和銅3年)、「奈良・藤原京」から同じく奈良の「平城京」へ都が遷都した。「平城京」鎮守のために社を建て、神様をお祀りした。その神様は藤原氏の祖先神「武甕槌命(タケミカヅチ)」だった。その神様は常陸国(現在の茨城県)の鹿島神宮に鎮座されていた。常陸国から「純白の鹿」の背に跨った「武甕槌命」が、新都である「奈良・平城京」へ参った。藤原氏は「武甕槌命」を、すぐさまお祀りするために、「春日の地(御蓋山・みかさやま)」に社を建てました。そしてこの時「武甕槌命」が背に跨ってきた鹿も「武甕槌命」同様に「神の使い(神使)」として、この社で崇め、現代に至るまで大切にお祀りされてきたということのようだ。ちなみに平城京鎮守のために建てられたこの社は、現代では「春日大社」という名前で親しまれている。
華女 奈良の鹿は春日大社の鹿なのね。千年も前から奈良の街には鹿がいるのね。
句郎 今じゃ、奈良の街の鹿は観光資源の一つになっている。
華女 奈良時代から鹿を詠んだ歌があるわね。
句郎 岩波新書に斎藤茂吉の『万葉秀歌』がある。この中に舒明天皇が詠んだ「タされば小倉の山に鳴く鹿の今宵は鳴かず寝(い)ねにけらしも」がある。 高校生だった頃、国語の授業で教わった記憶がある。
華女 オスの鹿が夕方になると妻を恋う鳴き声をあげるのよね。哀し気に鳴く声が今夜は聞こえない。ということは・・ということね。
句郎 「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき」。『古今集』にある歌が『百人一首』にある。
華女 和歌の文化を継承した俳諧は鹿を秋の季語として詠むようにしたということね。
句郎 鹿を詠んだ和歌には上品な哀しみがあるが俳諧になると庶民の感覚になったということかな。
華女 「ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿」。「ぴいと啼く尻声」、ここに元禄時代に生きた農民や町人の感覚を感じるわ。
句郎 その庶民の感覚を継承して現代の俳句があるのじゃないのかな。
華女 この感覚というものも身分によって違ってくるということなのね。
句郎 公家には公家のものの見方があり、感覚がある。武士には武士のものの考え方があり、見方があり、感じ方があるように農民や町人にもものの見方があり、考え方があり、感じ方があるのじゃないのかな。
華女 芭蕉は農民や町人の感じ方を俳諧の発句に詠んでいると言うことなのね。
句郎 「ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿」。この「ぴいと啼く尻声」、ここに芭蕉の独創性があるように思う。
華女 芭蕉は新しい文学を創り出したと言うことなのかしら。それは江戸時代に生きた庶民、農民や町人の感覚を文学にまで磨きあげたということね。
句郎 そうなんじゃないかな。妻を求めて鳴く鹿の声は哀愁を帯びているので秋の季語になったようだ。その哀愁を表現する言葉は町人や農民の言葉だった。
華女 「ぴいと啼く」、即物的な直接性に芭蕉は新しさを見つけたということね。
句郎 その精神を現代俳句は継承している。
華女 分かるわ。橋本多佳子の句に「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」があるわ。この句は芭蕉の句の延長線上にあるように感じるわ。                           
句郎 即物的な直接性のある新しい女性の感覚かな。

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