幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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「線量計と奥の細道」ドリアン助川著 ”被災地の支援は十分か? 原発事故を生かそうとしない政府?”

2019-07-16 01:10:00 | 本の紹介
2012年
8月14日(調布)~8月18日(白河)
9月6日(東京⇒白河)~9月12日(中尊寺)
10月8日(東京⇒宮城)~10月13日(新潟の手前)
11月5日(東京⇒新潟)~11月13日(大垣)

復興は進んでいるというが、放射性物質に汚染された強制避難地域がなくなったわけではない。家に戻れず、いまだに仮設住宅で暮らすたくさんの人がいる。汚染土の最終処分場はおろか、その処理方法する確定していない。猛毒の土はドラム缶サイズのフレコンバックに入れられ、黒い群れとなって被災地の海辺を占領するばかりだ。

世界には嘘つきも多いが、日本人は政府高官にいたるまでみんな正直者だ、とはとうてい思えないからだ。政府や東京電力の学者たちは、起きていることをすべて明らかにしただろうか。隠蔽はなかっただろうか、チェルノブイリも福島第一もメルトダウンを起こした。原発事故として最悪のレベル7に達した。それでも大したことないという印象を与えようとした東大のセンセイたちや、彼らの言葉をもって安心を演出した報道があったことを私は忘れない。

日本政府が定めた一般大衆の線量限度、年間1ミリシーベルトを精神的安全基準値ととらえたい。肉的な基準値ではないと言われても、皆に不安を与えているのだから、この数値はやはり意味を持つ。年間1ミリシーベルトなら、365で割り、さらに24で割ると、約0.11マイクロシーベルト毎時という計算になる。被爆する外出時を一日の半分だと仮定すると、この倍の0.22マイクロシーベルト毎時あたりからが心理的な影響を受ける数値だと線引きしていいのかもしれない。空間線量計やモニタリングポストはあらかじめ自然放射線量を引き算してあるので、出た数値はそのまま人口放射線量だ。
調布 仕事場 0.10マイクロシーベルト

鹿沼が0.05以下で検知できず。原発事故への影響は、単純に原発からの直線距離だけでは語れないと知る。
JR日光駅前 0.14マイクロシーベルト
東照宮 三猿そば 0.19~0.22マイクロシーベルト

事故を起こした原発から百キロ以上離れた地でもある。しかし、こんなにも汚染されていたのだ。
日光 裏見の滝 展望施設横 0.43マイクロシーベルト

数値をあらためて知ることは、そこに住む人々にとって気持ちのいいものではないだろう。日光で高い数値が出てから、私はそこをこれまで以上に考え始めた。迷いのようなものが生じだしたのだ。私は、目に見えない部分での日本の現実を知ろうとしてこの旅を始めた。しかしその結果、多くの人を傷付けてしまうことになるのではないか。当然のことながら、それを考え始めたのだ。
那須 住宅地 0.38マイクロシーベルト

山下さんはキリスト教の牧師であり、知的障碍があるお子さんたちを受け入れる福祉施設の園長をしていらっしゃる。
幼い頃に戦争を経験されたという山下勝弘さんは、原発事故後の「ただちに人体に影響はない」という官房長官の言葉を聞いて、これは大本営発表と変わらないと感じられたそうだ。国民に大事なことを隠しているという意味でだ。案の定、山下さんの国外の知人友人からは、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の数値を見て、早く避難した方がいいという助言があった。

SPEEDIによる汚染数値の発表。これは私が調べたことだが、原発事故から一か月経てもこのシステムによる数値は国内でただ一度しか発表されなかった。一方でJAEA(国際原子力機関)には毎時報告されていた。ドイツ政府やフランス政府が日本の居住者への一時退去を勧告したのもSPEEDIによる測定値を知っていたからだ。それなのに当事国に日本では、確定された数値ではない、いたずらに国民の不安を煽るのはどうかと伏せられたままだった。これは本当におかしい。抗議しなければいけないことだ。

川沿いの緑豊かな地に瀟洒な園舎と園庭からなる「白河めぐみ学園」がった、その中には放射線量を測るモニタリングスポストが設置されている。なんと、児童福祉施設でありながら示している数値は0.596マイクロシーベルト。
園庭の端に積まれていた、すぐそばに飛行機をかたどった子供たちの遊具もある。ここで線量測定をしたところ、恐ろしい数値が出た。なんと、1.62マイクロシーベルト! 原発から二十キロの強制避難区域並みの数値だ。もちろん先生方は、ここに子供たちを近付けないようにされているのだろうが、子供は「行くな」と言われるほどそこに行ってみたくなるものだ。

山下さんは語気を強めておっしゃる。「ひどい数値だ。ならば出ていけばいいというが、子供たちを抱えてどこに出ていけるというのか。私たちはここで暮らすしかないのです」

郡山 逢瀬川沿いの土手 0.52マイクロシーベルト
はっきり記憶しているのは以下の三つだ。
第三位「チャイルドラインに電話をかけてくる福島の少年少女たちが激増していること」
第二位「中学生の別離をテーマにした歌が、説明聞いているだけでじーんとくること」
第一位「農家の青年の決心が小気味いいこと」
  大半の農家は、この地を離れずに農業を続けていこうと覚悟を決めている。

郡山 安積山公園の芝生 0.62マイクロシーベルト
私は本当に、安達太良山が見えることあたり、福島の仲通り地方が好きなのだと思う。

福島 信夫山 山頂 1.34マイクロシーベルト
角田駅前 0.33マイクロシーベルト
福島 文知摺観音裏手 1.48マイクロシーベルト
桑折 奥州街道と羽刕街道の追分 0.57マイクロシーベルト
繰り返しになるが、ここで考えてしまうのが、今の自分の行為だ。復興に向け、必死になって立ち上がろうとしている人たちにとっては、線量についての話題が出るだけでもいやなものだろう。福島の大半が汚染されてしまった事実をなかったことにするのはもちろん無理な話だが、ここで農業を営み、あるいは観光客を招こうとする人々にとっては、その件については話さないでもらいたい、忘れてもらいたいというのが本音だろう。
このあたりの土地が放射性物質に汚染されてしまったことは疑いのない事実だ。農地の除染は進んでも、それを敷地外に出すことはできない。また、山林の除染は基本的に不可能なので、降り積もったセシウムは水の流れに乗り、方々に新たなホットスポットをつくるだろう。それが原発事故の現実だ。そして今、売れない桃や梨を前にして、奥さんたちは炎天下に座り続ける。苦だ、と思った。

芭蕉も伊達藩では苦労があったようだ。その最たるものは句会をすべて拒まれたこと。句の指導を通じて路銀を得ていた可能性のある芭蕉にとって、壁をつくるように接してくる伊達藩の姿勢は、経済的にも精神的にも痛手を与えたようだ。ただ、多くの『奥の細道』ファンがもしやと思うように、そのあたりの本当の事情はよくわからない。伊達藩に対する芭蕉隠密説がそれだ。そもそも、芭蕉の伊達藩での動きがどうも怪しい。曽良の記録を見ても、解釈しにくい日が十日ほどある。

東京電力は福島第一原発の事故に際し、想定外の波という言い方を繰り返した。しかしそれは本当に想定外だったのだろうか? 想定していなかっただけではないのか。そんなことを考えながら階段を上りきった。
塩竃神社 0.14マイクロシーベルト

松島 検知せず(0.05マイクロシーベルト)
片づけられた家と、こうして残っている家。その違いはなんなのだろう。復興に向け、すべてを一度に整理することはもちろん不可能だ。優先順位は当然生じる。その結果、無残な姿のまま残されてしまった家々なのだろうか。あるいはこうも聞く。持ち主を失った家は、今のところ手のつけようがないのだと。

2000年から三年近くニューヨークで暮らしていた自分にとって、今日9月11日はまさに大惨事を目撃した日でもある。ハイジャックされた二機の旅客機が突っ込んだトレードセンタービルは、世界が荒れ果てていくその口火を切るかのように目の前で崩落していった。
・・・ あたりが大騒ぎしているのでアパートの五十階まで上がってみると、ちょうど二機目の旅客機が突っ込むところだった。・・・ そして思ったのだ。国と国が戦争をし、終戦が来れば仲直りするような時代はもう来ない。これからは、人間であるがゆえにテロと紛争が永々と続く時代が来る。パンドラの箱が開いたのだと。

石巻 日和山公園 0.09マイクロシーベルト
旦那さんとお孫さんを亡くされたお婆ちゃんは、自殺しようと思っていたそうだ。でも、熊谷さんが描いた孫の似顔絵が出てきた。その絵を見ているうちに、生きていこうとすこしずつ心が変わってきたという。お婆ちゃんはそれを話に来てくれたのだ。

目の前に、小学校の校舎があった。焼け焦げた学び舎だ。津波で押し込まれた多数の車から発火したと新聞で読んだ記憶がある小学校だった。火炎の跡もなまなましい黒ずんだ校舎の前で、子供たちが一生懸命に野球をやっていた。・・・
なんという構図だろうと思った。日本中から、いや世界中なから届いた多額の寄付金。復興のためのその財源の大半は、まだ使われずにプールされているという。それはもちろん、ものごとには優先順位があるだろう。混乱した状況では仕方がないことだ。しかし、その財源のなかから、なぜいち早く「もんじゅ」の維持費への割り当てが決定されたのか? 現在のところ、福島第一原子力発電所が起こした事故の被害は計り知れない。基本的には山野除染など不可能なのだ。最終処理施設をつくるにも迷走の日々は続くことだろう。その現実を前に、問題だらけで停止したままの高速増殖炉「もんじゅ」になぜ財源が使われるのか? そしてなぜ、この子たちは焦げた校舎の前で野球をしなければならないのか。正真正銘の被災地にいるこの子たちを1年半も放っておいて、震災から遠く離れた福井県の各施設に財源を回す理由を教えてもらいたい。困窮している人々ではなく、政治家はなぜ財源の顔色ばかりを窺うのか。日本の大人たちは、今この子たちになにを残そうとしているのか。風景が滲んだまま戻らない。悔しくて、奥歯を噛んだ。

線量計を自分なりに測るというこの旅を、今後も続けるべきなのか。続けるとするなら、記録はすべて自分の心に留めるべきなのか。福島で私は思った。桃を売ろうとするおばあちゃんたちを見ながら強く思った。ゼロベクトルとは言えずとも、基準値以下の農作物をようやく出荷できるようになった農家のみなさん。あの人たちを前にしたとき、それでもここは汚染されていると記すことにどんな意味があるのか。いや、だけど・・・とも思う。補償を受けられなかったり、汚染土を敷地内から出せなかったり、そうして苦しんでいる人たちもたくさんいる。「福島はもう元気です」という言葉の裏側で我慢を強いられている人達がいる。・・・ 本当はとても深い傷を受けているのに、周囲を心配させまいとして、「大丈夫」と無理して笑っている人たちの顔が浮かぶのだ。

(堺田駅)
小径に沿うように小川が流れていた。その水が一度貯まって小さな池をつくっている。
そこに「分水嶺」という標識があり、駅から向かって右には「太平洋」、左には「日本海」と記されているのだ。こんなものを見たのは初めてだったので、本当に前に足が進まなくなった。わずかな水量でありながら、太平洋と日本海へ分かれていくここが分岐点。どちらに流れていくかは水の知ったことではない。まさに偶然による振り分けなのだ。それがよくわかるのは木の葉の動きだった。流されてきた木の葉は小さな池でくるくる回りながら、左へ、右へと吸いこまれていく。
人の世もまさにそうなのだと思った。運命の分水嶺はいつもどこかに隠れている。
いつ、どんな家庭に生まれるのか。だれと出会うのか。どんあ仕事と巡り合うのか。そして私はつい、震災のことも考えてしまう。津波に飲み込まれた人。逃げ出せた人。原発事故によって家を放棄しなければならなくなった人。その現状をテレビで見ながら、数分後には家族の団らんに戻る人。

山寺登山口。ここからいよいよ「天台宗 宝珠山立石寺」の院内に入るわけだが、会談の両側に青いトレーニングウエアを着た中学生たちが並び、なにやら話しかけてくる。うん? と耳を傾ければ英語ではないか。「We can speak English. May I guide you?」
おお、そうなのか。学校でこういうことをやろうと決めたのだな。ここは外国からの観光客も多いから、実践的な英語の勉強ができるし、外国人のみなさんにも喜んでもらえれば一石二鳥というわけだ。と納得しながら彼らの横を通り過ぎたのだが、いったいなぜ私に? と振り返れば、すぐ後ろに外国人のカップルがいた。
立石寺五大堂 0.14マイクロシーベルト

(最上川を背に)
「ここも第一原発から200キロ以内ですから、風向き次第じゃ可能性があったでしょ。もし、この庄内までやられていたら、東北の農作物は全滅でしたよ。そうなったら、日本の食糧がなくなっちゃう」 でも、そうなる危険性もあったんですよね~、風向きで多くの人の人生が左右されてしまうのだから、これはまったくもってひどい話ですよ~」

羽黒山 検知せず

長岡 駅前植込み 0.19マイクロシーベルト

柏崎刈羽原子力発電所は東京電力の発電施設だ。関東に住む者であれば、たとえ原発反対派であろうと、利用している電気の一部はここから送られてきたものだ。だが、私たちはその電源がどんな風景のなかにあるのかを知らない。知らなさすぎる。原発問題と過疎問題は切り離せないとよく言われるが、逆に言うならば、それは都市住民のエゴという問題でもある。そのエゴを温床にして、政府と巨大企業はやりたいようにやっていく。

私は東京の池袋で生まれた。歓楽街を抜ける通りからすこし奥に入ったアパートで五歳までを過ごした。貧しき我が家には一間しかなく、勤労学生だった父は深夜まで勉強を怠らず、母もまたいくつかの仕事を得て家計を支えようとしていた。その合間に父がつくってくれたひらがなの表。冷蔵庫の扉にそれが貼ってあった。

入善 ブラウンラーメン。まいったな。こんなにうまいラーメンがこれまでまったく知らなかった町にあったのだ。

民主党が与党として機能していうかどうか、それは確かにさまざまな意見があるだろう。この国の経済的な落ち込みは甚だしいし、浮上する気配すら見えない。しかしそれはそれまでの与党にも責任があるのではないか。民主党になったから日本の経済は脆弱になったのか? 十年、二十年というスケールで考えると、私はそう簡単な見方はできない。
ただ、こと原発に限って討論するなら、それなしの未来を政策措定打ち出してくれそうなのは民主党なのだ。今ここでヒステリーを起こし、わるいことはみな民主党のせいなのだとばかり以前の与党の時代に後戻りしてしまえば、再び原発を正義と唱える人々が現れるだろう。そしてそれが主流派となり、各地の原発が再稼働されることになる。

敦賀 気比の松原~色浜 0.09~0.14マイクロシーベルト

数えきれない被災者が、デモに訴えるわけでもなく、テロに走るわけでもなく、ただおのれの手を見ながら立ち上がり、生活の再建に向けて汗を流している。まさにもの言わぬみなさんの毎日の努力が、復興基盤の本質なのだ。
だからこそ私は言葉をもって訴えたい。
無言の人々が我慢を重ねている状態に、為政者は寄りかかるべきではない。権力を持った者たちは、訴えようとしない人たちの心の声を把握するべきだ。
数えきれないほどの大地震の歴史と、実際に起きた原発事故から、私たちはなにを学んだのか。危機はすぐ目の前にある。

感想
汚染の主役は半減期 30 年の 137Cs と半減期 2 年の 134Cs
半減期 2 年の 134Cs はほとんどなくなっていると思われます。
今は半減期 30 年の 137Cs
2011年+30年=2041年

原子力は安全と自民党政権が推進してきました。
福島第一原発事故が起きても原子力稼働で進んでいます。

地震と津波が多い日本、本当に大丈夫でしょうか?

女川原発は津波の想定を16.7mで設計しました。
実際には福島第一原発と同じ16mの津波が来ましたが、難を逃れました。
女川も福島第一と同様にメルトダウンしていたら、東北の農業は壊滅的でした。
一方福島第一原発は津波予想を6mで設計していました。
想定外と責任者は言っていますが、女川と福島第一の違いは何だったのでしょうか?

もうあんなことは起きないだろう!と思って行動しているのでしょう。
少し基準を厳しくしましたがそれで安全ということではありません。
喉元過ぎれば熱さを忘れるになっているのかもしれません。

それともっと被災地への支援を強化する必要があるのではと読んでいて思いました。


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