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誘致された工場が軒並み浸水……郡山市「中央工業団地」の大被害を招いた“無策の33年間” ”将来のリスクに備える人、無視する人”

2019-11-20 09:38:00 | 社会
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191115-00015476-bunshun-soci&p=1 文春オンライン 11/15(金)

「よくもまあ、あんな土地に工場を誘致したものです。案の定、水害に遭って企業が大損害を被りました。工場を撤退させる企業が出かねない情勢で、自宅待機になった社員からは『職を失うのではないか』という不安の声が出ています」

 福島県内の何人もの行政関係者に、このような話を聞いた。

 それが取材の始まりだった。
県内最大の被害を受けた郡山市
 台風19号は、10月12日夜に伊豆半島へ上陸し、13日に福島県から太平洋へ抜けるまでに、広範な範囲で被害を引き起こした。

 死者・行方不明者は全国で100人近くにのぼる。福島県では都道府県で最多の約30人が犠牲になっただけでなく、大小河川の氾濫や崖崩れで県全体が被災した。

 なかでも被害が大きかったのが同県郡山市だ。犠牲者はいわき市の8人、本宮市の7人より少ない6人だったが、経済的な損失を含めた被災規模は福島県で最も大きいと言われている。

 それは、冒頭の行政関係者が言う「あんな土地」に誘致した工場が軒並み浸水したからだ。

 150社以上が立地する中央工業団地である。
“過去50年間に特記すべき天災地変は皆無”のはずが……
 同工業団地は、東北新幹線が停車するJR郡山駅から2~3キロメートルしか離れておらず、東京に直結した土地であることを売りにしてきた。

 しかし、歴史をさかのぼれば、福島県を南から北に貫く阿武隈川と、その支流の谷田川に囲まれた「氾濫原」(市史)のような土地だった。

 ここには戦争中、軍都を目指した郡山市が海軍の飛行場を誘致した。戦後は工業都市に方向転換した市が1964年から工業団地を造成した。

 江戸時代は奥州街道の一宿場町にすぎなかった郡山が、約33万人の人口を抱え、福島県の3大都市の一角を占めるまでになった原動力の一つだった。

 市は企業誘致に際して、「過去50年間に特記すべき天災地変は皆無」と宣伝した。ところが――。
1986年にも中央工業団地は水没していた
 福島県で戦後最大の水害とされてきたのは1986年8月4日~5日の「8・5水害」である。

 この時、中央工業団地はスッポリ水没した。

「市にだまされた」。そう批判する進出企業もあった。

 現在も工場を構える「パナソニック」(発災時は松下電器産業)の当時の社長は、市長を訪ねて「再びこのような災害のないように恒久対策をくれぐれもお願いしたい」と強く要請した。

 にもかかわらず今回、また全域が水没した。阿武隈川が堤防を越水しただけでなく、谷田川が破堤して、1階の天井まで浸水した企業もあった。

「そんなの、あなたが調べればいいじゃないか」
 市の「恒久対策」とは何だったのか。市担当者に尋ねると、「少なくとも8・5水害以降に進出した企業は土地のかさ上げなどの対策を取っている」と言う。聞きたかったのは企業の自衛策ではない。誘致した市がどんな責任を果たしたかだ。重ねて質問すると、担当者はイライラを募らせた挙句、「そんなの、あなたが調べればいいじゃないか」と言い放ち、明確な回答をしなかった。

 現地で取材すると、8・5水害の後に進出した企業でも、浸水対策をとっていなかった社がいくつもあった。水害を嫌って転出した企業の社屋をそのまま使い、被災したのである。営業車を避難させなかったため、身動きすら取れなくなった企業もあった。

 市は十分に危険性を広報していたのか。せめて今回、車だけでも避難させるよう呼び掛けられなかったのか。

 一方、同じ阿武隈川流域でも大きな被害を免れた市がある。下流の福島市だ。小河川の決壊で100軒ほど被災したものの、8・5水害で「海のようになった」(市職員)地区は助かった。

 これには、市としての構えに違いがあったと話す人がいる。
「歴代の福島市長は洪水との戦いでした。死の床まで『ダムの完成はまだか』と口にしていた市長。黒塗りの公用車を四輪駆動車に替え、いつでも災害現場に駆けつけられるように作業着と長靴を積んでいた市長もいました」と市関係者は語る。
「人災」の郡山市と「奇跡」の福島市
 暴れ川として知られている阿武隈川の支流「荒川」の対策では、荒川とは離れた場所にある競馬場の周辺整備補助金を強引に使ってまで、下流部の住民の避難路となる橋を架けた。

 さらには、住民の発案で、国・県・市が一体になった治水事業も行った。

「何もしないで被災を免れたわけではない」。この治水事業に関わった住民は言い切る。

「人災」の側面が指摘される郡山市。逆に「奇跡」のように大災害を免れた福島市。

 道が分かれたのはなぜなのか。郡山市で被災した企業の苦境とともに、「文藝春秋」12月号および「文藝春秋digital」に掲載した「 洪水被災地ルポ 郡山の『人災』と福島の『奇跡』 」で詳報する。
葉上 太郎/文藝春秋 2019年12月号

感想
50年洪水が起きていない。
しかし、地元の人はその地域が洪水被害を受けやすいことを知っていました。
なぜなら地元民は何百年もそこに代々住んできたのです。
何百年の自然災害を防ぐには、50年でなくもっと何百年の自然災害を知って対策を打つ必要があるのでしょう。

その典型例が福島第一原発のメルトダウンにつながった津波対策でした。
東北大震災と同じ規模の地震と津波は“貞観地震”は、平安時代前期の貞観11年(869年)に発生したと言われています。
当時の住民は石像を残し、「この石造より下に家を建ててはいけない」と子孫に伝えました。
それを守ったのが東方電力の女川原発でした。
それを無視したのが東京電力の福島第一原発でした。
守った人と無視した人。
無視した人は今裁判にかけられています。

まさに、トップの人が将来をどう考えているかなのでしょう。

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