「みんなちがって、たいへんだ」 この言葉は現代の状況を見事に言い当てた言葉だと思う。もちろんこの言葉は人口に膾炙している金子みすゞの詩の言葉「みんなちがって、みんないい」を踏まえている。みんなちがって、みんないい、とは確かに聞こえはいい。一見すると、多様性を尊重した美しい言葉にも思える。しかし、意見は違っても、現実においては(ことに政治においては)互いの意見を摺り合わせてより良い合意の形成を目指していかなければいけない。そうでなければ、ただそれぞれの自分勝手が横行するだけの事態にもなりかねない。上の金子みすゞの言葉は、より正確を期すれば、それぞれが本来の在り方に沿って生きるならば、みんなちがって、みんないい、と言ってもよいようなものと思える。
この本は、「対話」を推奨している本である。もっと言えば,対話を必要としてこなかった日本社会の特異性を生かしながら、しかし国際的な様相を呈してきている現代において日本社会が対話を欠いた状況にあるのは好ましくないと述べている本である。
この本の著者は、平田オリザという筆者の大学の先輩である高名な劇作家である。この本は、震災の翌年の2012年に上梓されている。
よって、震災後に顕在化してきた日本社会における対話の必要性、そしてこの時代に本当に必要とされるコミュニケーション能力とは何かについて論じている。
この本のなかで興味深い指摘は、第二次世界大戦のファシズムに走った枢軸国の特徴として、一様に対話の言葉を醸成していなかったことが挙げられるとしている。一致団結、挙国一致するための言葉はいち早く作られていったが、多様な価値観同士を摺り合わせるための対話の言葉が育つ機会を持たないまま、英仏米などの随分前に近代的な国民国家を樹立した国々に追い付こうとして、焦ったのが一因とされる。
まだ英仏米の方が、国としてコンテクストの摺り合わせを十分に時間をかけて行ってきたという経緯があるようだ。
ここの指摘は、とても興味深く読んだ。
さて、コミュニケーションにおいてはずれというのもコミュニケーションを阻害する要因になるそうだ。明確な違う言語であるという「差異」によるもの以上に、同じ文化圏のなかでもその人の暮らし方、癖などによって違う「ずれ」のようなものが、より意識に上りにくくかえって問題化することがあるというのだ。だから、遠く離れた国よりも、近くの国に対してその「ずれ」によって起こるコミュニケーションの齟齬から嫌な意識を持ちやすいということも言えるそうだ。
この本で他に印象に残ったところは、「協調性から社交性へ」というところだ。また、他の箇所では「同情から共感へ」という言葉もある。これらの概念は、上記の対話の必要性とも絡んでくる。
ただ同調に終始する協調する力よりも、対話によってより良い合意形成を目指す社交力の方が、今後の世界を生き抜く力としては重要だということである。これには至極同意する。
他にも日本の教育は、インプットする内容をあまりにも狭く設定し、アウトプットを自由にしすぎたとも言う。この指摘も的を得ている。あまりに安直に正解を限定できる、一つの問いには一つの正解しかないという狭いインプットのみを半ば強いておきながら、アウトプットは何でもありなんだよ、好き勝手に自由にしていいんだよと言い過ぎたということである。ここら辺も、確かになぁと思わされるところではある。むしろ、アウトプットこそ一定の時間内でまとまった形を提示する力が求められるとこの本では言っている。確かにそうである。
また、人間は演じるサルであるということも書かれていた。ゴリラも父親になったときに、父を演じるようになるそうだが、それまでの役柄は破棄してしまうという。複数の役割を、場面に応じて演じ分けられるというのは、人間の特質であるらしい。
また最後に興味深い言葉が書かれていた。「演劇は人類の生み出した最も面白い遊びである」といった内容だ。この本で書かれているような趣旨のコミュニケーション能力をつけていけば、新しい日本人になっていけるという。そうならば、俺がならずして誰がなるのだという話になってくる。私は、生まれて初めて「遊ぶ」という字が使われている自分の名前を誇らしく思った。
演じるということに関しては、この本のなかで、村上陽一郎というこれまた私の在学していた国際基督教大学の教授をしばらくしていた人が、人間を玉ネギに例えていたという。皮の一枚一枚がその人の演じている仮面で、どこまで剥いたから本質で、どこからが仮面だということもないらしい。人間はその場に応じて、仮面を使いわけ、何処までも演じる生き物であるらしい。まあ、ほんとに玉ネギみたいに芯の芯も人間にはないのか、というと甚だ疑問だが、仮面の重層性を人間が保有している現実を語るには持ってこいの例えだとは思える。
このように、この本は非常に私の今後の行動の指針となる大いに参考になる本だったということができる。
あぁ~、いい本読んだ。
この本は、「対話」を推奨している本である。もっと言えば,対話を必要としてこなかった日本社会の特異性を生かしながら、しかし国際的な様相を呈してきている現代において日本社会が対話を欠いた状況にあるのは好ましくないと述べている本である。
この本の著者は、平田オリザという筆者の大学の先輩である高名な劇作家である。この本は、震災の翌年の2012年に上梓されている。
よって、震災後に顕在化してきた日本社会における対話の必要性、そしてこの時代に本当に必要とされるコミュニケーション能力とは何かについて論じている。
この本のなかで興味深い指摘は、第二次世界大戦のファシズムに走った枢軸国の特徴として、一様に対話の言葉を醸成していなかったことが挙げられるとしている。一致団結、挙国一致するための言葉はいち早く作られていったが、多様な価値観同士を摺り合わせるための対話の言葉が育つ機会を持たないまま、英仏米などの随分前に近代的な国民国家を樹立した国々に追い付こうとして、焦ったのが一因とされる。
まだ英仏米の方が、国としてコンテクストの摺り合わせを十分に時間をかけて行ってきたという経緯があるようだ。
ここの指摘は、とても興味深く読んだ。
さて、コミュニケーションにおいてはずれというのもコミュニケーションを阻害する要因になるそうだ。明確な違う言語であるという「差異」によるもの以上に、同じ文化圏のなかでもその人の暮らし方、癖などによって違う「ずれ」のようなものが、より意識に上りにくくかえって問題化することがあるというのだ。だから、遠く離れた国よりも、近くの国に対してその「ずれ」によって起こるコミュニケーションの齟齬から嫌な意識を持ちやすいということも言えるそうだ。
この本で他に印象に残ったところは、「協調性から社交性へ」というところだ。また、他の箇所では「同情から共感へ」という言葉もある。これらの概念は、上記の対話の必要性とも絡んでくる。
ただ同調に終始する協調する力よりも、対話によってより良い合意形成を目指す社交力の方が、今後の世界を生き抜く力としては重要だということである。これには至極同意する。
他にも日本の教育は、インプットする内容をあまりにも狭く設定し、アウトプットを自由にしすぎたとも言う。この指摘も的を得ている。あまりに安直に正解を限定できる、一つの問いには一つの正解しかないという狭いインプットのみを半ば強いておきながら、アウトプットは何でもありなんだよ、好き勝手に自由にしていいんだよと言い過ぎたということである。ここら辺も、確かになぁと思わされるところではある。むしろ、アウトプットこそ一定の時間内でまとまった形を提示する力が求められるとこの本では言っている。確かにそうである。
また、人間は演じるサルであるということも書かれていた。ゴリラも父親になったときに、父を演じるようになるそうだが、それまでの役柄は破棄してしまうという。複数の役割を、場面に応じて演じ分けられるというのは、人間の特質であるらしい。
また最後に興味深い言葉が書かれていた。「演劇は人類の生み出した最も面白い遊びである」といった内容だ。この本で書かれているような趣旨のコミュニケーション能力をつけていけば、新しい日本人になっていけるという。そうならば、俺がならずして誰がなるのだという話になってくる。私は、生まれて初めて「遊ぶ」という字が使われている自分の名前を誇らしく思った。
演じるということに関しては、この本のなかで、村上陽一郎というこれまた私の在学していた国際基督教大学の教授をしばらくしていた人が、人間を玉ネギに例えていたという。皮の一枚一枚がその人の演じている仮面で、どこまで剥いたから本質で、どこからが仮面だということもないらしい。人間はその場に応じて、仮面を使いわけ、何処までも演じる生き物であるらしい。まあ、ほんとに玉ネギみたいに芯の芯も人間にはないのか、というと甚だ疑問だが、仮面の重層性を人間が保有している現実を語るには持ってこいの例えだとは思える。
このように、この本は非常に私の今後の行動の指針となる大いに参考になる本だったということができる。
あぁ~、いい本読んだ。