唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(38)

2020-09-20 11:25:15 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。ご無沙汰しております。ブログを開設して数年経ちますが、ブログは当然読んでいただきたいのです。しかし、ブログは僕の学びのスタイルとして、こうでもしないと学びの姿勢がとりませんので書き込みをしているわけです。ですから読み手の方にとっては、書き込みをしなくても知っておられると思うわけです。煩わせて申し訳ありません。m(__)m
でも今日も考えさせてください。
前回、内因外縁について触れさせていただきました。親鸞聖人は信心正因と示されました。
典拠として、
『正像末和讃』(真聖p504)
「不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまへり 信心の正因うることは かたきがなかになをかたし」
「信文類」(真聖p223)
「涅槃の真因はただ信心をもってす。」
「信文類」(真聖p228)
「この心はすなわち如来の大悲心なるが故に必ず報土の正定の因と成る。」
『正信偈』(真聖p206)
「往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。」etc。
涅槃の真実の因は、涅槃は、意訳として「滅度」、迷いが消え去った彼岸の世界を表しています。天台の止観行や真言の三密行。瞑想や六波羅蜜なども涅槃に至る道なのです。
 今日はちょうど秋彼岸日ですのが、考えてほしいと思います。
親鸞聖人は「正信偈」源空章(真聖p207)において、迷いと目覚めの因を示しておられます。
「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもっえ能入とす、といえり。」と。
この因は大乗仏教では無為法として表され、種子としては無漏種子なのです。涅槃の真因は信心という背景は、私たちの有漏性が問われているのですね。私の持っている種子は有為有漏性で、生滅変化しているのです。縁によって右から左へと転換します。その背景は、第七末那識、限りなく自己に執らわれる心が潜んでいるからです。利己性ですね。恒に自分のことを思い量っている、自分と他を天秤にかけて自の優位性を保とうとしている心が寝ても覚めても働き続けていると唯識は説きます。
真宗の行は聞法ですといわれるのは、法は無為無漏ですから、その法を聞いて、聞く自分は自分の都合で聞いているのですが、聞いて法が身に染みてくることに於いて、我執が破れてくるのですね。破っている働きは無漏種子です。
聞法は有為法ですが、聞いている法は無為法ですから、信心を得るための増上縁となるわけですね。すべては我が計らいであったと頭が下がったところに、第七末那識が破れて、すなわち分別が破れて、すべてはこのこと一つ、信心を得るためのご縁であったと頂けるわけでしょう。阿頼耶識との出会いです。阿頼耶識との出会いが涅槃の真因と成るのですね。
ですから、有漏の出会いをいくら重ねても汚れしか生まれません。信心といっても、その信心の内実は罪福信になります。迷いを重ねるだけですね。年を重ねて老境に至っても、我が強くなるのは、迷いを積み重ねてきた結果に他ならないからです。
涅槃の真因が何故信心なのかを学ぶ姿勢が問われてきます。問うてくるのは無為法で、聞法からしか生まれてきませんね。
聞く私が、聞かれた法に呼び覚まされるのですね。
今日は雑感になりましたが、また難しい『成唯識論』を読んでいきます。またです。
 

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