唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(20)

2020-03-15 09:51:51 | 唯識入門
 おはようございます。新型コロナウイルスの影響で、講座や法要が相次いで中止、延期になっています。異常事態です。アメリカの研究チームは空気感染もあり得るという見解を示しました。どこにいても感染のリスクを負っていることになるのでしょうね。できるだけの予防をして感染しないように努めなければなりません。
 そして、産業界では七月以降の受注が激減すると予想を立てています。つまり、今は受注残をこなしているだけなのです。経済が逼塞状態にあるということです。倒産件数も増えるのでしょうね。それに伴い、失業者も増えます。お金が回らないというのは、息ができない状態です。
 私たちに突き付けられた問題、問いかけは非常に深いものがあります。
 今日も、ネット学習は粛々として進めてまいりたいと思います。
 前回よりのつづきになります。今回は因縁果の、「縁」について考えます。縁とは条件です。条件が整って果が生じてきます。自らの因と、自らが引き寄せてきた条件が和合(わごう)して、現在が結果として動いているのです。
 ここをしっかり問い詰めておかないと、自己を問うということが成り立ちません。自己に遇うことが永遠に不可能になってしまいます。現在はここを問いかけているのですね。
 さまざまな縁が合することを待って現行する。因が果に成るためには縁を待つわけです。縁生です。縁によって生じてきます。縁は一つではありませんから、衆縁(しゅえん)を待つ、と云われています。衆縁を待って現行し、現行したものは種子として蓄積されていくわけです。種子が現行する為には、衆縁を待たなければならないのですが、現行しているということは種子が縁に触れて顕れているのでしょう、それが待衆縁(たいしゅえん)であり、種子である、ということなのですね。
 慈恩大師の釈はすばらしいです。
 「謂く、自らの種子なれども要(かな)ず衆縁和合(しゅえんわごう)せるを待って、種子転変(しゅうじてんへん)して現行等の諸果を起取(きしゅ)す。作用功能殊勝(さゆうくうのうしゅしょう)なるが方(まさ)に種子を成ず、故に種の自類の因縁合するに非ざるをば種子と名づけず。」(『述記』)
 他から持ってきたものは種子とはならないと。自らの目を開きなさいということを教えられたのですね。
 一つは、衆縁を待たないで、自然に生じてくるという、因縁生を否定した論理です。
 もう一つは、衆縁を待たないで、自然に生じてくるという、因縁生を否定した論理です。
 宮城先生は、
 「一切は 縁において生まれ 縁においてあり 縁において去っていく」(宮城 顗)
 と、教えられました。
 種子は衆縁を待って現行し、衆縁において熏習される、種子生現行・現行熏種子が成立つのは、待衆縁に依る。非常に大事なことを教えています。これが聞熏習につながってくるのですね。聞が縁となる、ということです。教法が生きて働いてくる時に縁となるのが聞なのですね。聞なくしては、教法は現実には働いてこないのです。
 今日はここまでにしておきます。

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