唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(32)

2020-07-05 11:08:30 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。九州地方は大雨で大変な状況になっています。心配です。局地的豪雨は多大な災害をもたらしますし、防ぎようがありませんから当事者の方々のご心労はいかばかりかとお察しいたします。
 コロナ禍もじわりじわりと第二派に向かっているようで三蜜は避けなければいけませんね。
 四分についての説明です。
 私たちの認識活動は、「識体転じて二分に似(の)るなり。」と、自分の心が転変して、見るものと、見られるものとに似て現れる。見られるものという相分は、自分の心の表れである、見分も相分も自分の心の表れであって、「倶に自証に依って起こる」と云われているのですね。自証分を依り所として見分・相分が成り立っているという。
 識が縁ずる(対象とする)のは、識の中に表された対象を縁ずる、内識のみであって、無境ということ、唯識とは、唯量という意味を持ち、識が外境に似る、その構造が二分であって、唯二という。そして意識は、意識があって、様々なものを縁ずるのではない、一々の意識が二分をもっている、それで種々という。「唯量・唯二・種々」という意義を総合して唯識という。
 体が自証分で、用(ゆう・働き)が見分・相分の二分で三分が成り立つのです。
 難陀の二分説は「内識転じて外境に似る」、内識である見分が転じて外境の相分に似て現ずるという。
 三分は、見・相二分の根底に自証分を見てくるのです。自証とは自覚、自分の心に映じたものを自分が見ているという自覚自証ですね。見分も相分も自証分もすべて自分の心であると見ていくのですね。 
 「似る」ということについて、
 『論』に「変と云うは、謂く識体転じて二分に似る」と説明していますが、識体とは依他起性(えたきしょう・縁に依っておこってくるもの)であって、実体として有るものではなく、有に似ているのもとして存在している。心そのものが転変して、見分と相分という二つの働きに分かれると説かれています。ですから、見分・相分も実体として有るものではないということです。
 遍計所執(へんげしょしゅう)の二分の見・相に似て変化したものにすぎないということになりますね。
 「分別心に由って相の境生ずるが故に、境いい分別して心方に生ずることを得るには非ず。故に唯きょうに非ず。但だ唯識と言う。」
 分別心によって相境(そうきょう・対象)が生じるのであって、境の相が分別心を生ずるのではない、と解釈しています。
 つまり、対象物が存在して分別心が起こってくるのではなく、自分の心の中の分別心が相境を生み出しているというのです。私たちの認識とは全く逆をいっていますが、私たちの認識の顛倒が迷いを生起させてくるのであると教えています。
 鎌倉時代の法相宗の学僧である良遍は、
 「先一切ノ諸法ハ皆我心ニ不離。・・・・・心外ニ有リト思ハ迷乱也。此迷乱ニ依ル故ニ、無始ヨリ以来、生死ニ輪廻スル身トナレリ。」(『二巻鈔』。大正71-109a) と述べています。深い見識です。
 護法は三分共に依他起としています。即ち能変の識体だけが依他起ではなく、所変の見・相二分もまた依他起として有という立場になります。
 しかし、安慧は自体分のみが依他起であって、見・相の二分は遍計所執であるとています。遍計所執とは、心の外に実体として有ると執着されたものですから、本来的には無いものです。無いものを有ると執着したものですから、見・相の二分は本来的には存在しないもの、依他起ではない、依他起の自体分が遍計の二分に似る、有るのは自体分のみであるということで、安慧の主張は一分説といわれるのです。
 所変という意味は、識が変化して現れ出たもの、了別するのが識の働きですから、「識の所縁は唯識の所現なり」と云われるのです。そして、識は何を介在として現れるのかという問題があります。それは「マナス」という染汚性なる自己中心性なのです。自分にとって何が得で、何が損となるのかを瞬時に判断して行動を起こすのです。自分という実体が未来永劫壊れることなく存在すると思っている執着が恒に働いていると教えています。
 護法は自証分という、何かを見たという認識を自分が知っていることを、また自分は知っているいう証自証分を立てます。自覚が無限に続くという、肝胆相照らすという言葉がありますが、自証分と証自証分は互いに照らすのです。
 四分説の教えていることは、私たちの認識が如何に虚妄分別で成り立っているのかなのです。誰のことでもありません、私の心の在り方が指摘されています。
 すべては私の心が作り出したもの。私は私の心の影を見て日々の暮らしをしていることになります。あなたをご縁として、私は日々私と対面しているのです。
 ここで一応四分説の概略を終わらせていただきます。
 また来週です。

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