詩人PIKKIのひとこと日記&詩

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侵略の責任は誰にあるか 『オサヒト覚え書き追跡篇ー台湾・朝鮮・琉球へと』(石川逸子

2019年10月17日 | 犯罪
 怖いもの見たさも手伝うのか、それとも亡霊や幽霊それ自体が魅力的なのか、怪談にとどまらず、彼・彼女たちの出る話と聞いただけで覗いてみたくなる。

 オサヒトの亡霊がひとりの少女を伴って、作者「わたし」のもとに現れ、義弟・北白川宮能久のことを一緒に調べて欲しいと頼む場面から本書は始まる。オサヒトとは幕末の動乱の渦中で死去した孝明天皇(明治天皇の父/写真下)。彼の死(1867年)には不可解な点が多く、当時からも暗殺説が流れていた。亡霊は、自分は殺されたのではないかと疑い、死因探索のために「わたし」とともに幕末から明治初年に至る時代の闇へとわけ入り、南北朝時代まで遡る。そのふたりの道行きを語ったのが前作『オサヒト覚え書きー亡霊が語る明治維新』。今回の『追跡篇』はいわばその続編にあたる。前作を「明治政府成立史」とすれば、本書は「明治侵略史」であり、独立した作品である。著者はよく知られた詩人であり、20代で、詩集『狼たち・私たち』でH氏賞受賞、その後も中学教員として平和教育・組合活動に取り組み、『ヒロシマ連祷』、『千鳥ヶ淵へ行きましたか』の詩作など今も旺盛な仕事が続けられている。今回の文章も、当然ながら明晰であり透明度が高く奥行きが深い。

 北白川宮能久は1867年寛永寺管主となり、戊辰戦争に巻き込まれ奥羽列藩同盟の盟主に担がれるが、最後は近衛軍指揮官として台湾で病死する。かれの明治時代を辿りながら同時に東学農民戦争の制圧に向かう日本の蛮行が描かれる、それが第1章。第2章では朝鮮王妃である閔妃の殺害事件を日本軍、日本政府がどのように企て・実行したかが示され、最終章では琉球処分の顛末が記される。亡霊オサヒトと「わたし」による書誌行脚、資料解読の過程、そこに二人の時にユーモラスなやりとりが挟まれ、話は進む。

 いうまでもないが作者は歴史解釈あるいは訓詁学的歴史本を書こうとしたのではない。といってこの作品は、史実をフィクションに置き換えたものでもない。いくつもの原資料を緻密に読み解き裏付けを得る実証的方法を貫きながら、消されかかった事実、振り向かれようともしなかった出来事を探索し、どこまでも歴史の真実に迫ろうとしたものだ。戊辰戦争から明治の初めに至る過程にも広くいわれていることと異なる真実はいくつもある。本書は史実の発見に満ちている。戊辰戦争を賊軍・官軍の呼称ではなく、先入観を廃して「西軍・東軍」と呼ぶのも著者の史観を示すし、明治政府が長州、薩摩閥によって壟断されていた事実、ムツヒト(明治天皇)を徹頭徹尾利用し抜いていたことがあかされるなどもほんの一例である。

 亡霊オサヒトは現し身の時には知りえなかった事実を知って、人さながらに苦悩し悲しみ落胆する。「わたし」とオサヒトに共同者としての信頼感、親近感さえ生まれるようだ。著者は天皇を特別な存在として見ていない。それは他国民・他民族であっても平等かつヒューマンに捉える姿勢に通じていく。安重根が伊藤博文の15の罪のなかに、閔妃殺害と自身オサヒトの暗殺を挙げていることに、亡霊オサヒトが共感し深く感じ入る場面から、著者の開かれた歴史観・人間観を読むことができる。維新明治期を「坂の上の雲」を目指した理想主義の時代として描いた司馬遼太郎の見方などとそれは根底から対立する。

 逆に本書を、明治期日本の侵略を薩長閥政府、あるいは天皇絶対主義にすべて帰していると読む人もいるかもしれない。が、そうではない。「奥行き」と書いたことに関係するが、野蛮な朝鮮併合策に、かつて「官軍」の策謀・暴力主義を批判し「賊軍」の兵として闘った人もまた関わっていく事実。そして民衆もそれに巻き込まれ一体となって侵略に向かっていった、そこに歴史の真実があり、侵略の責任は他ならぬわたしたち日本の民衆にもある。その事実がこの物語から浮かび上がる。



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