読書をする大学生が50%に満たないということで、危機感を持っているという報道があった。
「日本の未来は大丈夫か?」
というわけだ。

しかし、踊らされてはいけない。
そもそもそんな調査をしたのは戦後からであって、昔の人もそんなに本好きではなかった。
ただ世界に目を向ければ、日本は有数の文盲率の低さであり、江戸時代から庶民は本に親しんでいたことは事実であるらしい。
ただそれでも、五割も本を読んでいるならそんなに危惧することは無かろう。
要は、本を読む人と、読まない人が日本では「二分」されているということだ。ざっくりいうと。
年代別ではもっと違ったデータになるかもしれない。
報道や文科省が言いたいことは、スマホの時代になって活字離れが進み、論理的思考、読解力ともに衰えを見せている若者が急増していることだろう。

それも今に始まったことではない。
私たちの学生時代にもあった。
いや、私でさえ読解力には自信がなかった。
人並みに他人の文章を読めるようになったのは、なんと四十になって会社を辞め、法律の勉強をし始めたときからだ。あまりにも自分の読解力のなさに泣けてきた。
それまでの私の論文は誤字の多い、恥の多い文章だったと思う。

両親が亡くなって、私も幾度も司法書士試験に挫折し、夫が障がい者になり、孤独感から父母を偲ぶために彼らの残した膨大な蔵書をひも解くようになった。
そのころからだ、ちゃんと本と向き合うようになったのは。
私は、もう五十になっていた。人生の半分を過ぎていたのだ。

本を読む人は、ちゃんと若い頃から、いや、幼いころから本を読んでいる。
本を読まない人は、それこそ一生、読まないものだ。

だから、本を読まない人は、自分の経験だけで人生を送っている。
本を読む人は、本から得られる疑似体験をたくさん学んで、最良の人生を歩むことができる。
その差は歴然としている…と、本読みは胸を張る。
私は、それは言い過ぎだと思う。
確かに、本をたくさん読む人は、客観的思考に長けていて、また文章も本から学んだわかりやすい美文を書く人が多い。それはそうだろう。
だが、最良の人生を送れているかどうかは、甚だ疑問だ。
思考も理路整然としているから、人の話をよく聞き、自分の主張を伝えることがうまい人も多かろう。
それが人生に生かされているかどうか?
故中曾根康弘元首相は、多読の人だったし、その著作もすばらしく説得力のあるものだ。
また、石破茂氏も読書家であり、発言は的を射ているし、著作も丁寧で、例えも上手でわかりやすい。

中曽根氏は政治手腕を発揮し、当時の日本のかじ取り、外交をほぼ的確に成し遂げた。もちろん賛否はあろうが、保守中道のバランスをうまく取った政治家だと評される。
ところが、石破氏は政治の閑職に追いやられ、今や、派閥の領袖をも降りてしまった。自ら政治生命を絶ってしまったかの印象を受ける。
この差は読書量では推し量れない。

ただやはり格差の底辺にいる人は読書どころではないのも事実だろう。その日の暮らしもままならないのに、本など読んでいても腹はくちくならないからだ。
格差の固定化が進むと、その親も本を読まないし、子弟に本を与えないか、与えたくても経済的に許さないなどの理由で、本を読まない文化が伝承されていく。
彼らの話す言葉は、語彙が乏しく、国や行政の「お達し」が読めない。意味を理解しないので、行政サービスから落ちこぼれていく。
私たちが常識としている日本語の言い回し、慣用句が通じない人々が増えている。
ネットスラングなら通じても、ことわざなどが通じない。
また言葉の誤用も増え、誤用が多数派となって新しい日本語が形成されていく。
「言葉の揺れ」と片付けていいものなのか、悩ましいところである。
つまり「言葉の格差」は「読書量の格差」が原因だと言われる。

進学校に進んで、有名大学に入る子弟は、読書の多寡についてあまり悩まないのかもしれない。
家庭でも豊富に書籍を与えられ、本を読む習慣も小さい頃からついているだろうからだ。
かれらは入試で問われる文章題を難なくクリアする。
すでに読解力が備わっているからだろう。
ところが、全国統一学力テストだと、地方によって格差がつく。
読書は習慣づけが大きく作用するので、家庭の経済状態に左右されるのだ。

で、何度も言うが、そんな格差は今に始まったことではないのである。
現代はあらゆることが統計ではっきりするので、問題が浮き彫りになりやすい。
しかし、戦前から本を読めない環境の人は一定数いたのである。
落語の「代書」では文字を読めない、書けない人の行動をおもしろおかしく演じたものだ。
そういう「学のない人」が社会の底辺を支えていたことは事実だ。
今もそうだろう。
当時の彼らが一様に不幸だったかと言えば、そうでもなかったらしい。
今は違うが。

戦後の闇市で、食べ物を商う屋台に交じって、古本屋が一定数あったと聞く。
そして、そんな飢えている時代でも、活字に飢えた日本人は古本を買いあさったとも聞く。
お金もないのに、古本屋はそこそこ繁盛したらしい。
物々交換で、本で米や芋と交換して生きながらえたインテリもいた。
どさくさでも、本に価値があったのだ。
日本人の活字好きが、今や活字離れになっている。
嘆かわしいことだが、スマホが本の代わりになれないのは書き手の問題もあると思う。