なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

伊予散歩(3)~村上海賊の能島城跡(2021 4 11)

2021年04月30日 | 歴史&観光

 

 カレイ山展望台から能島(左)と鯛埼島(右)

 

 宣教師ルイス・フロイスが”日本最大の海賊”と云わしめた村上海賊。戦国時代に因島、来島、そして能島の三島村上を統率したのが村上武吉(たけよし)だ。彼の居城・能島城は、岩礁と急流で守られた天然の要害となっている。青い海と大小の島々が織りなす景観は素晴らしいが、容易には近づけない海城だ。

 そんな能島の上陸と潮流クルーズを体験してみた。

 

〈その1 能島城跡〉

 能島は芸予諸島の大島と鵜島の間に浮かび、周囲約846mの無人島だ。南側に小さな鯛埼島を従え、周囲は激しい潮流で洗われる岩礁で囲まれている。

 宮窪港を出港した観光船は、舳先を持ち上げ、一気にスピードを上げる。正面から吹き付ける春風が心地よく、あっという間に能島沖合いに到着する。

 海面は激しい潮がぶつかり合い、うず潮やわき潮が荒れ狂い、まるで急流を下るラフティングのようだ。そんな海面に小さな観光船は、容赦なく突っ込んで行く。ときにはエンジンを止め、潮の流れに任せた船はくるくる回り、ときには島に激突するかと思うほど舳先を近づける。その操船テクニックは感心するほどだが、意外にも、船頭さんは日焼けした細面のご老人だ。

 船は激流に近づいたり乗ったりしながら、島をぐるりと回る。潮流は大潮の時で最大10ノット(約時速18キロ)あると云われ、帆船や手漕ぎ船の時代は容易には近づけない。おまけに岩礁に囲まれていて座礁する危険性も高い。能島城は海自体が敵を寄せ付けないお濠なのだ。

 ガイドさんは、潮流の発生のメカニズムを次のように説明する。

「潮の干満は6時間おきにあり、東から西へそして西から東へと、1日に4回向きを変える。東の紀伊水道と西の豊後水道から入ってきた潮は、瀬戸内海のほぼ中央にある鞆の沖合いでぶつかる。芸予諸島はそのすぐ西にあり、大小55以上の島々が堰となり、激しい流れの潮になる。」

 島はいびつな三角形をしていて、その斜辺の部分に小さな浜や船溜まりがあり、不思議とその海域の波だけが穏やかだ。その岸辺には岩礁ピットと呼ばれる柱穴が多数あり、船を繋いだり、係留するためのテラスの基礎だと考えられている。この穴は島全体で400以上あり、能島村上衆がいかに多くの船舶を保有していたかが分かる。

  NETから岩礁ピットの画像

 南側の平坦地にある簡素な船着き場に着くと、いよいよ上陸だ。救命胴衣を着けた少数の観光客は、ガイドさんに案内されながら急な階段を上って行く。島の周囲は急峻な切岸になっていて、陸上の城の石垣のようだ。海というお濠と切岸という石垣で、島は天然の地形で守られている。

南部平坦地の船着き場と史跡能島城跡碑

 そして島全体は植樹された桜の木で覆われ、見頃を過ぎたこの日がなんとも惜しまれる。

本丸から船着き場の見える南方向

 まずは西方向に伯方・大島大橋が見える三ノ丸。発掘調査では島最大の掘立柱建物と倉庫跡が発見され、注目すべきは鍛冶炉跡があったことだ。そこからは剥片やふいごなどが出土し、近くには冷却用の水溜めも発見されている。今はすべて埋め戻され、ガイドさんの説明で想像するしかない。

三ノ丸から伯方・大島大橋

 次に標高31mの最頂部にある本丸。そこからは360度の展望が広がり、あらゆる方向からやって来る船舶が確認できる。北側には北や西からやって来る船を監視するために、井楼(せいろう)と呼ばれる高い櫓が建てられていた。北の鼻繰瀬戸や北西の船折瀬戸は安芸と伊予を結ぶ重要な水路で、能島はその喉元を押さえる場所に位置している。逆に云えば、この水路を航行する船舶は、能島の監視からは逃れられないことになる。

 またここからも掘立建物跡が発見されていて、かわらけ(素焼きの皿)の破片が1万点以上も出土し、儀式や宴会の場所だったと推測されている。

ガイドさんの説明を熱心に聞くツアー参加者

 そして本丸から東方向に下りた二ノ丸。ここでは何度も建て替えられた建物跡が発見されていて、主に住居空間として使われていたようだ。正面には「矢びつ」と呼ばれる出丸があり、弓の稽古場や武器庫があったと云う。

突き出た矢びつ出丸の足許は、激しい潮で洗われている

 最後に南端に突き出た東南出丸。正面には周囲256mの小さな鯛埼島(たいざきしま)が、狭い急流は挟んで鎮座していて、山頂には弁財天が祀られている。能島とは橋で結ばれていたと云う伝承があるが、発掘調査の結果、その痕跡は確認されていないようだ。

 能島が城として使われ始めるのは14世紀後半。15世紀後半から16世紀前半には、各曲輪の整地がなされ、16世紀半ばには船着き場のある南部平坦地の埋め立てが完了したようだ。

 戦国時代には村上武吉の全盛期を迎えるが、天正16年(1588)、秀吉の「海賊停止令(かいぞくちょうじれい)」により能島村上は終焉を迎える。武吉の去った能島城は廃城となり、それ以降は無人島となる。そのため良い状態で遺構が保存される結果となり、昭和28年(1953)に「能島城跡」として国指定史跡となった。

 

〈その2 海賊大将・村上武吉〉

  

 三島村上のルーツはどこにあるのか?

 村上氏は鎌倉時代後半から瀬戸内各地で活躍していたが、南朝の重臣・北畠師清(もろきよ)が始祖となり、彼の三人の孫が能島、来島、因島の三家に分かれて「三島村上氏」を称したと云われるが、確かな史料がなく伝説の域を出ていない。

 室町初期、三島の中でいち早く史実に登場するのが「能島村上氏」だ。その頃は島や船舶の強奪行為をしていたものの、一方では塩や海産物を運搬する船舶の警固衆として収入を得ていたようだ。

 その後三島は徐々に結束が進み、瀬戸内海中部を掌握する大海賊へと成長していく。その頃の財源は水先案内、海上輸送、船舶警護などの海上活動が主だった。そして三島は一応能島を宗家としていたが、地理的条件で因島は安芸の小早川氏と、来島は伊予の河野氏との関係が深く、同族意識を持ちながらも独自の行動も多く、連携や離反をくり返しながら台頭していく。

 戦国時代、三島の結束を固め統率したのが、能島の村上武吉(1533~1604)だ。彼は20歳前後の頃、「能島騒動」という家督争いで勝利し能島の頭領となった。持ち前の明晰な頭脳と素早い決断力で、さらに支配網を広げて行く。そして彼の率いる能島衆は、有事には多くの小舟による機動力や焙烙(ほうろく)玉といった火薬を使い、海上戦闘の達人へと成長していく。

当時の船は3種類

手前から小回りのきく小早船(こばやぶね)、中型船の関船(せきぶね)、

そして鉄砲や矢を撃つ狭間の空いた大型船の安宅船(あたけぶね)

 

焙烙玉は第一次木津川合戦で、織田の水軍に壊滅的な打撃を与えた。

 武吉は弘治の厳島合戦を始め、永禄の毛利・大友合戦、そして織田軍と戦った天正の木津川合戦など、中国や九州の平定を目指す毛利氏に協力し、瀬戸内全域に勢力を延ばしていった。彼は毛利氏と、とりわけ同い年の賢将・小早川隆景との親交が厚い。城山三郎氏の小説『秀吉と武吉』を読むと、三島村上の結束は毛利一族(本家、吉川家、小早川家)を模範とし、どんな試練にも三家一丸となって立ち向かう組織力は、武吉の理想の姿として映ったのだろう。

小早川隆景 (1533~1597)

 村上海賊の最大の海上権益は、航行する船舶から得る「帆別銭(ほべちせん)」という通行料収入だ。規律と鍛錬を重んじた武吉は、略奪行為を禁止し、積荷の一割を徴収することで航行の安全を保障した。通行料を支払った船舶には、「過所旗(かしょき)」という通行証を与え、この旗を掲げて航行する限り安全は担保された。その既得権益を擁護し、有事での戦闘力を高く評価したのが小早川隆景だった。

 

過所旗と村上武吉の陣羽織

 一般に「海賊」と云うと、船を襲って金品を奪う「パイレーツ」をイメージする。しかし平時の村上海賊はパイレーツとは違い、漁師や海運、あるいは水先案内人やボディーガードなどを収入源として、意外にも連歌を詠む文化人の顔も持っていた。

 また「村上海賊」なのか「村上水軍」なのかについては、戦国時代には「水軍」という言葉はなく、当時は「警固衆」と呼ばれていた。「水軍」は江戸中期頃から使われ始め、幕末には一般に定着したようだ。

 ガイドさんの話しによると、宮窪港にある博物館名は、以前「村上水軍博物館」だったが、今治市は正確を期すために、最近「村上海賊ミュージアム」に変更したほどだ。

 

 そして天正年間に入ると、織田軍団は徐々に中国地方へと支配を広げていく。前線司令官の秀吉はあらゆる手を使い、三島村上あるいはその家中の分断を図ろうとし、その調略の結果、来島村上氏は織田方に寝返ってしまう。

 本能寺の変後はしばし瀬戸内に平和が訪れたが、天正15年(1587)、天下人となった秀吉は、海上に関所を設け通行税を取り立てる行為を禁止した。その「海賊停止令」に背いた武吉は、とうとう能島を追われ筑前に移住することになる。当初は隆景の庇護によって、かろうじて地位を保持していたが、次第に能島家臣団の多くは他家へと離れていった。その後は長門や竹原などを転々として、周防(山口県)の屋代島で生涯を閉じた(享年72歳)。

 毛利氏は最終的には秀吉の軍門に下ってしまうが、傘下の武吉はことごとく秀吉の要求を拒否した。最後には武吉も秀吉に屈服してしまうが、生涯自由と独立を貫いた海の武将だ。自らの信念に忠実に生き、執拗なまでに海の掟を守り、ぶれない男の生き方を示したと云えるだろう。

 容易には近づけない能島城跡は、まさに武吉の生き様を表現しているようだ。

 

〈その3 村上海賊と木津川合戦〉

 天正4年(1576)5月、信長は一向宗門徒の籠る石山本願寺の本格的な攻撃に乗り出す。彼の云う「天下布武」の最大の障害になったのが、石山本願寺の門徒衆だった。その宗主・顕如は各地の門徒衆に蜂起を命じ、いわゆる信長包囲網を構築し、徹底抗戦の構えを示し続けた。この石山本願寺合戦は約10年に及んだが、天正8年(1580)3月、信長と顕如の和睦で終決する。

顕如 (1543~1592)

 天正4年(1576)7月、兵糧の乏しくなった顕如は、その救いを毛利氏に求めた。それに呼応した毛利軍は、兵糧船600とそれを警固する兵船300を編成し、大阪木津川河口に向かった。武吉が総大将となり、代将として嫡男・元吉の三島村上衆、毛利本家の重臣・児玉就英(なりひで)の警固衆(水軍)、そして小早川家の重臣・乃美宗勝の警固衆らによる900艘を越える大船団だった。

 それに対し織田軍は、伊勢の九鬼義隆を総大将に、真鍋七五三兵衛(しめのひょうえ)や沼間家の泉州侍を船将として、大小300余艘の船で河口を封鎖していた。

 この顕如の救援要請は、鞆に逃げのびていた足利義昭を通じて発せられ、また毛利領内に多く住む一向宗徒の要望でもあったため、毛利氏はむげに断ることができなかった。その上、友好関係にあった信長に対して反旗を翻すことにもなり、毛利氏の将来を大きく左右する重大事項だった。

 最終的に要請を受け入れるにあたって、小早川隆景はひとつの条件を付けた。籠城する本願寺を包囲する織田軍を、西と東から挟撃するために”謙信が動けば”という条件だ。そのため淡路の岩屋に集結した大船団は、謙信の動向を何日も待つことになった。

 

第一次と第二次の木津川合戦 (村上海賊ミュージアムHPから)

 結局謙信の西上はなかったが、河口を封鎖していた織田軍と、兵糧を搬入しようとした毛利軍は深夜未明激突し、主力の三島村上衆の活躍で毛利側の大勝で終わった。船を手足のように操る村上衆の機動力と、武吉考案の焙烙玉や火矢の威力で、織田軍300艘のほとんどの船は炎上し、壊滅的な打撃を受け沈んでいった。そして無事、兵糧や兵器は本願寺に運び込まれ、毛利軍は大役を果たし堂々と帰還していった。

 しかし2年後の第二次木津川合戦では、信長が九鬼嘉隆に造らせた6隻の鉄鋼船で、毛利軍は攻めきれず敗れ去ることになる。

  和田竜氏の『村上海賊の娘』は、凄まじい合戦を見事に描いた長編小説だ。第一次木津川合戦を舞台に、毛利軍と織田軍の2つの大船団が激突する壮大な海戦絵巻だ。

 主人公の「景(きょう)」という名の娘は、実在はしていたが履歴等一切分かっていない。

 村上武吉には二男一女の子供がいた。男児の長男・元吉と次男・景親は、生没年も行動履歴も明確になっているが、女児に至っては名前さえ分かっていない。古文書『萩藩譜録』の家系図に娘がいたことだけが記されていて、後に黒川元康の妻になったようだが、その元康さえどんな人物だったのか判然としない。

村上武吉の周辺の人々

 そこで和田氏はこの娘を「景」と名付けた。嫡男・元吉の「元」は毛利元就から、次男・景親の「景」は小早川隆景から、それぞれ諱(いみな)をもらったのは事実だが、氏は想像力逞しく隆景の「景」をとり、どこか「強(きょう)」を匂わせるような読みにしている。

 女主人公の景は悪知恵の働く醜女で、嫁の貰い手がなく、戦さ好きで男勝りの女海賊だ。

そして和田氏は「景」の容貌を次のように表現する。

『海風に逆巻く乱髪の下で見え隠れする貌(かお)は細く、鼻梁は鷹の嘴のごとく鋭く、そして高かった。その眼は眦(まなじり)が裂けたかと思うほど巨大で、眉は両の眼に迫り、眦とともに怒ったように吊り上がっている。口は大きく、唇は分厚く、不適に上がった口角は、鬼が微笑んだようであった』《上巻 p.70》

また、素っ裸になった場面では、彼女のプロポーションをこう夢想する。

『胸乳こそ豊かだが、尻は馬のごとく肉が盛り上がり、腕と太腿は引き締まり、深い溝が幾本も走っていた。腹は戦場を駆け回る足軽さながらに筋張っている。獲物と見れば牙を剝く野生の獣のごとき体軀(たいく)であった』《下巻 p.172》

 

 この小説をもし映画化すれば、だれが「景」のイメージに合うのだろう?

一番に浮かんだのは杏さん、そして二番目には菜々緒さんだ。日本人離れした目鼻立ちと八頭身のスリムな体形は、和田氏の頭の中には、きっと杏さんのイメージがあったのではないだろうか?

 そして景が杏さんであれば、武吉は実父の渡辺謙さんだ。氏は武吉を小兵と書いているが、渡辺謙さんも海に生きる強者(つわもの)のイメージにぴったりだ。その他、登場人物の役を想定すればキリがないが、迫力ある海のアクション映画としてぜひ製作して欲しいものだ。

 糸山公園展望台から来島海峡大橋

 青い海と多くの大小の島々、その間を白い弧を描いて航行する船舶。素晴らしい多島美を見せる芸予諸島の島数は、有人無人を合わせると55を越えると云う。

 その中で、ひときわ小さくポツンと浮かぶ能島城跡。現在は桜の名所になっている。桜は毎年咲いては散っていくが、430年前に散った村上海賊は、遠い歴史のなかで鮮やかに咲いている。