なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

安芸・奈半利散歩~マルモッタンほか (2019 7 5)

2019年07月17日 | 歴史&観光

〈その1 モネの庭・マルモッタン〉

 睡蓮をこよなく愛したクロード・モネ(1840~1926)。43歳のとき北フランスのジヴェルニーに移り住み、亡くなる86歳まで約200点の睡蓮画を残している。アトリエのある庭に、セーヌ川の支流から水を引き込み、創作以外の時間は池や庭の手入れに余念がなかったようだ。

 そんなモネの庭を再現したのが高知県北川村のマルモッタン。マルモッタンとは、モネ作品の世界最大コレクションで知られる美術館名から取られ、世界で唯一「モネの庭」の名称が本家より許可された施設だ。

 広い庭は駐車場をはさみ、花の庭、水の庭、光の庭の3エリアに分かれている。特に水の庭は池自体がキャンバスのようで、どこを切り取っても名画のようだ。

 

 

 池には小さな橋が架かり、周遊する遊歩道には花棚やベンチが絶妙に配置されていて、モネの見た風景が忠実に再現されている。

 

 睡蓮は温帯性のものと、熱帯性のものがあって、花季はそれぞれ4月末から10月末と、6月末から10月末だ。そして赤、白、ピンク色が温帯性で、青い(薄紫)色の花びらが東南アジア原産の熱帯性だ。

 パンフレットに書かれてあるように、モネの住む北フランスのジヴェルニーでは、咲かせたいと夢にまでみた青い睡蓮を咲かせることはできなかったらしい。熱帯性だけに越冬させるのが難しいが、ここ高知北川村では高い技術力で見事に咲かせている。

 モネの睡蓮画を検索してみると、ひとつの疑問が湧いてきた。晩年の作品に『青い睡蓮』(1916~19 オルセー美術館所蔵)がある。咲かせることも見ることもできなかったモネなのに、熱烈な青の睡蓮への執着がイマジネーションを働かせたのだろうか?

 

 〈その2 中岡慎太郎生家〉

  モネの庭から5㌔ほど奈半利川を北上すると、中岡慎太郎の生家と資料館が山肌に抱かれるようにある。当時はもちろん国道も橋もなく、海岸にある奈半利の村に出るには、背後の厳しい山道を越えて行ったに違いない。

 

 慶応3年(1867)11月5日夜、京都河原町にある醤油商「近江屋」の2階で、坂本龍馬と中岡慎太郎は見回り組刺客に襲われた。龍馬は即死し、慎太郎は重傷を負って2日後に絶命した。龍馬33歳、慎太郎30歳の若さだった。

 司馬先生が『竜馬が行く』を書いて以来、圧倒的人気のある龍馬に対して少々影をひそめる存在の慎太郎だが、彼の業績を知れば知るほど高く評価する歴史学者は多い。

 龍馬同様土佐藩から脱藩し、激動の幕末を駆け抜けた彼の功績は、大きく分けて三つある。

 一つ目は薩長同盟の実現だ。この成立は龍馬一人の手柄のように思われがちだが、仲介者としての慎太郎がいなければ、成立しなかったとも云われている。

 二つ目は犬猿の仲だった公家の三条実美と岩倉具視の手を握らせたことだ。朝廷を中心とした新政府の樹立は、志士たちの活動だけでは成立しない。朝廷内部からの工作も必要だ。維新後の三条と岩倉の活躍をみても分かるように、慎太郎の仲介あっての功績だ。

 三つ目は龍馬の海援隊に対して、陸援隊を創設したことだ。海援隊は海外貿易を目指した商社的機能集団だが、陸援隊は小規模ながらも純粋な陸兵集団だった。長州の奇兵隊を参考にしたとも云われ、幕府打倒のための武力集団だった。

 司馬先生はこの慎太郎の思想性を、龍馬と比較しながら説明している。

『明治風の言葉でいえば、中岡は国権主義者であり、竜馬は民権主義者であるといえるだろう』(竜馬がゆく⑤・回天編)

 天皇を絶対的君主として新政府を樹立するという目標は同じだが、龍馬は基本的には平和主義者だった。できれば流血のない革命を成功させ、前将軍の慶喜をも参加した議会制度を目指した。一方、慎太郎は「富国強兵と云うものは、戦の一字にあり」と説いたように主戦論者だった。「倒幕」ではなく「討幕」なのだ。今風にいえば、龍馬はハト派で慎太郎はタカ派だ。

 その後の歴史は、薩長土藩による戊辰戦争が展開したように、中岡的革命思想によって近代国家は成立していく。

 

 

  資料館からすぐ近くには、中岡家の菩提寺だった松林寺跡がある。今は山門しか残ってないが、墓石は庄屋だった中岡家の風格を伝えている。

 慎太郎の墓は龍馬と共に京都の霊山護国神社にあるが、頭髪のみ北川村に里帰りして、両親や妻と共に中岡家の墓に葬られている。

 高台にある墓地から見える山河は、幕末のめまぐるしい回天などなかったかのように、ゆったりとときの流れに溶け込んでいた。

 

 

〈その3 伊尾木(いおき)洞〉

 大自然が創り上げた神秘の空間と云うしかない。長さ40mほどの小さな洞穴を抜けると、そこはまさにジェラシックパーク。身体にまとりつく湿った空気はひんやりとしていて、いきなり熱帯のジャングルに迷い込んだようだ。

 

 水量の少ない渓流が流れる谷は、両側が切り立った岩の崖になっていて、その岩肌は一面シダと苔で覆われている。見上げると生い茂った樹木が空を隠し、陽が届きにくい谷底は少しうす暗い。岩陰からふっと巨大な恐竜が現れても不思議ではない空間だ。

 この神秘的な洞穴と渓谷は、約300万年前砂岩や礫岩でできた地層が、太平洋の荒波で浸食されてできたらしい。洞穴内の壁には貝殻などの化石が見られ、抜け出た深い谷には特殊な環境が成立したのか、岩の斜面はシダの大群落になっている。40種類をこえるシダが繁殖していて、国の天然記念物に指定されている。

 深い渓谷の上流は右に左にと蛇行し、まるで戦国時代の山城に見られる掘り切りのようだ。そして約300mほど進んだ所に小さな滝があって、深い谷はそこで終了する。

  この小さな洞穴を挟んで、こちら側と向こう側は異次元の世界だ。洞穴入口前は交通量のある国道が走り、短い洞穴の向こう側は、タイムスリップしたかのような太古のジャングルが広がっている。日常と非日常を繋ぐこの伊尾木洞は、まるでいつかみたTVドラマの『タイムトンネル』のようだ。

 

 

〈その4 安芸城跡〉

 

 整然と積まれた石垣の桝形虎口に入ると、左手には江戸期に造られた武家屋敷。正面奥には藤崎神社が見え、右手には歴史民俗資料館がある。

 城跡は標高わずか41mの小山になっていて、曲輪は下から三の段、二の段、そして本丸のあった一の段の三つに分かれている。。

 最上の本丸跡は南北に長く、クスノキの大木が繁る林になっている。

 壬申の乱(672)後、土佐に流されてきた安芸一族の世は、900年に渡り栄華が続いた。しかし猛将と云われた安芸国虎のとき、四国制覇を目指す長曾我部元親に滅ぼされてしまう(1569)。

 司馬先生の長編小説『夏草の賦』によると、元親は総攻撃をいきなり開始したのではなく、まずは軍使を送り和議を申し入れた。しかし国虎は新興勢力の長曾我部家に隷属するのは武門の恥として、その申し入れを一蹴したようだ。同時に元親は国虎の家来の寝返りにも成功した。そしてその家来を使い城内の井戸に毒を投げ込ませ、籠城する国虎軍の戦意を奪った。

 城はほんの数日の攻撃で落城し、安芸国虎は菩提寺の浄貞寺で割腹して果てた。その結果、長曾我部元親は土佐の3分の2の領土を支配することになる。その後、四国制覇を成し遂げた長曾我部家。元親の死後、嫡子盛親は関ケ原では西軍として出陣したが、戦わずして敗走した。

 徳川の世になり、掛川から国主として入国した山内一豊は、家老の五藤為重を本城に配した。そして明治の廃藩置県まで、五藤氏がこの安芸の地を治めることになる。

 世の栄枯盛衰は今も昔も変わらない。お濠には国虎の死を偲ぶかのように、純白の蓮の花が咲き始めた。 

  

 

 



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