なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

近江散歩(5)~光秀と坂本城跡他(2019 11 30)

2019年12月14日 | 歴史

 天正2年(1571)9月12日、信長は比叡山焼き討ちを決行する。信長公記によると「一棟の建物も残さず、ひと時の間に雲霞のように焼き払った」とあり、「一人残らず首を打ち落とされ、目も当てられない惨状となった。数千人の死体が散乱し、哀れなことであった」と記されている。

 光秀はこの焼き討ちの武功で、信長から近江滋賀郡を与えられた。即刻、織田軍の上洛の拠点になっていた宇佐山城に入り、軍団内では初めての城持ち大名になった。翌年には湖岸に坂本城を築き、ナンバー2としての地位を確固たるものにした。このとき光秀は45歳、順風満帆の時期だった。

 そんな南近江の坂本の街を訪ねてみた。

 

〈その1 坂本城跡〉

 大津から国道161号線を右手に琵琶湖を見ながら北上。近江八景のひとつ「唐崎の松」を過ぎると、小さな城址公園がある。想像以上にこじんまりとした城跡だ。

 公園の東側には満々と水を湛えた琵琶湖が広がっている。松林越しに見えるその景観は、曇り空のせいもあってどこか殺風景としている。湖岸では十数人の観光客がボランティアガイドの説明に聞き入っていて、対岸には近江富士と呼ばれる三上山(432m)が端正な形を見せている。

 

 公園中央には光秀の石像と碑が建っているが、その立ち姿は正直云ってカッコ悪い。寸胴の体つきと決して精悍とは言えない顔つきが、安っぽいご当地キャラのようだ。私のイメージする知将・明智光秀の姿からは程遠い。

 

 1年半かけて築かれた坂本城は、三重の堀に囲まれた典型的な水城(みずき)だった。琵琶湖の水を引き入れ、船は堀を通じて直接 城内に入れた。

 そして城郭は天守と小天守の連立式構造で、当時の宣教師ルイス・フロイスは『日本史』で豪壮華麗な城と絶賛している。また昭和54年の発掘調査で本丸が確認されたとき瓦が出土していて、日本で最古級の位置付けになっている。総石垣で天守を持ち、瓦ぶきの櫓が建ち並ぶ「近世城郭」のルーツは、信長の安土城と云われていたが、その4年も前に光秀が見事に完成させている。

 

 坂本城の任務は比叡山を含む西近江の監視だが、信長の湖城ネットワークを構築する最初の城でもあった。秀吉の長浜城(天正3年)、信長自身の安土城(同4年)、そして信長の甥・織田信澄の大溝城(同6年)が次々と築かれていった。これら4城の位置関係は、琵琶湖を四角形に取り囲み、東西南北の物流は水運によって結ばれた。そして情報は狼煙によって即座に伝えられ、信長の天下布武は安土城を中心としたネットワークで完成した。

 それにしても現在の坂本城は、見事なほど何も残っていない。光秀の死後、城は徹底的に破却され、櫓や石垣のほとんどの資材は大津城築城に転用された。今は琵琶湖の渇水時に、石垣の基礎部だけが顔を出すという。「幻の城」と呼ばれる所以だ。

 

〈その2 西教寺〉

 坂本駅前あたりから西に延びる大通り・日吉の馬場は、石垣と白壁が木々の紅葉の中で見事に調和している。比叡山延暦寺と日吉大社の門前町として栄えた坂本は、風情ある街並みがいにしえの歴史を伝えている。

 道の両側には里坊と呼ばれる建物が建ち並び、基礎部の野面(のづら)積みの石垣が美しい。穴太衆(あのおしゅう)という石工集団が積み上げた石垣だ。石のほとんどは加工せず、自然石の状態で積み上げたものだ。

  

 この穴太という言葉は、京阪石山坂本線にある駅名にもなっていて、その巧みな職人技が時代を超えて評価されたに違いない。

  

 

 明智一族の菩提寺・西教寺はそんな街並みの通りから、1キロほど北上した所にある。延暦寺と三井寺と共に日本天台三総本山のひとつで、聖徳太子の創建というからその歴史は古い。

 元亀2年(1571)、信長による比叡山焼き討ちの際、当寺も全焼したが、その後檀徒となった光秀は復興に全力を注いだという。総門は坂本城にあった城門を寄進したものだ。また天正元年(1573)の今堅田城攻略で、戦死した18人の家来を弔うために、供養の米も寄進している。こうした配慮は当時の戦国武将には見られない行為で、いかに家臣団を大事にしていたかが分かる。家来を物としてしか見なかった信長とは対照的だ。

  来年のNHK大河は明智光秀主人公の『麒麟がくる』。総門前はその幟がはためき、多くの観光客で賑わっている。

 

 紅葉真っ盛りの参道は、赤やオレンジのトンネルになっていて、木々は見上げる青空に見事なほど映えている。”朱に交われば赤くなる”と云うが、私の黒い顔が紅色に染まったような気がした。

 

  紅葉の参道を進み、石段を上ると本堂がある。境内の山側は墓地になっていて、その正面に明智一族と光秀の妻・煕子(ひろこ)の墓がある。

 

 糟糠の妻・煕子は天正4年(1576)11月、光秀より早く病死している。この年は先に光秀が3か月にわたり病床に臥していて、その看病疲れなのか、労咳(肺結核)で亡くなっている。彼女の生年は不明だが、光秀が49歳のときだった。

 光秀と煕子の間には三男四女がもうけられている。その中で最も有名なのが三女・お玉で、のちの細川ガラシャだ。信長の命で細川忠興と結婚した彼女は、その後キリスト教を信仰するようになる。

 運命のときは関ケ原の合戦時だ。夫の忠興が東軍についたため、大坂にいた彼女は三成の登城要請を頑なに拒否した。最後には屋敷に火をつけ、自殺のできない信徒だったため、家臣に胸を突かせて亡くなっている。

 武士の妻としての心得を貫いた彼女の人生は、宣教師を通じて戯曲となり、西洋で絶賛されたと云う。光秀の「義」や「誠」のDNAを最も受け継いだのがお玉だったのかもしれない。

 西教寺の境内は、光秀や煕子そして明智一族を称えるかのように、燃えるような木々の色彩で染まっていた。

 

 

〈その3 瀬田の唐橋〉

 歴史小説を読んでいると、どの時代にも登場するのが瀬田の唐橋だ。東西交通の要で、古来から「唐橋を制するものは天下を制する」と云われている。また琵琶湖に流れ込む河川は多いが、唯一流れ出る川が瀬田川だ。東西を分ける地理的障害であり、また航路としての利便性も兼ね備えている。

 最初に橋が架けられたのは、中大兄皇子による大津宮遷都(667)のときのようだ。その後壬申の乱をはじめ、あらゆる時代の戦乱に巻き込まれ、焼け落ちては架け替えられている。

 本格的な橋を架けたのは信長だ。天正3年(1575)7月、瀬田城主・山岡景隆に命じて、初めて欄干の付いた長さ324mの橋を完成させている。この年の信長は足利義昭を京から追放し、浅井・朝倉連合や一向一揆 などの反信長勢力をほぼ一掃した時期だ。当面の敵は大坂の石山本願寺のみで、最大の危機からは脱していた。そして翌年早々には、天下布武の象徴となる安土城の築城も開始している。

 その安土城は、完成後わずか3年で燃えてしまうのだが、先んじてこの唐橋も焼け落ちてしまう。

 天正10年(1582)6月2日未明の本能寺の変。信長・信忠父子を自害に追い込んだ光秀は、矛先を安土城に変え、大津経由で瀬田に向かった。ところが光秀に異を唱えた山岡景隆は、橋に火をつけて甲賀に逃げてしまった。光秀は修復のため3日間足止め状態になってしまう。

 光秀の死は本能寺から12日後、この三日間は最初の想定外のつまずきだったのかもしれない。

 

 現在の鉄筋コンクリート製の橋は、昭和54年(1979)に竣工したものだ。信長が初めて採用した擬宝珠(ぎぼうしゅ)は代々受け継がれ、美しい唐橋の特徴になっている。

 

 また近江八景に選ばれていて、『瀬田の夕照(せきしょう)』は浮世絵師・歌川広重の代表作のひとつだ。

 

 何度も焼け落ちては架け替えられてきた瀬田の唐橋。かつては東から京都に向かう交通の要衝だった。また軍事的には京都防衛の構造物にもなった。

 今は交通量の多い地方道の橋に過ぎないが、その果たしてきた役割は計り知れない。橋の上を人が通り、物が流れ、そして歴史と云う大ドラマが通過していく。

 本能寺のクーデターに成功した明智光秀。夕暮れの唐橋の上を、意気揚々と渡って行く彼の軍勢が見えたような気がした。

 

  

 

 

 



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