ふ第一四三条 

高良山 大善薩山に還幸あって住厭(すみあき)に登り記文に「善き高山にしばらく住んだ。」とありこの記文により高良山と名付けたとある 一、良続 山上 山下の城を守ることもあるが、惣領の大祝を背き 当山禁止を怠るのは武勢丸子の体 平武士に降格する 並みの社家の役割を務める。 第一四四条 高良住厭(すみあき)には三年居て 四方の八葉の石畳を一夜にして構え 住厭(すみあき)であるとと云い今の所に至る 第二三七条 大善寺 風浪宮 黒崎 大善寺となること高良山寺社始まってその次に大井の言葉に大きな善い寺なので大善寺と名付けたとある 大井高良山へ明かりが無いので 九月三日に対戦し五日逗留し御船を改め御船の瓦を捨てたので御船山という七日の丑の刻より御船致し酒見へ上がり 波風の神を納め 天の二十八色 地の三十六 二十五あり九十九尊を納めた 後に風浪貢献と云われる九十九尊を やがて九十九社と呼ぶようになった 酒見とは老人は酒を飲むので酒見と名付けた。四日逗留して、十日とりのおはりより御船に行き 月が沈んだむと早く黒崎になると云ったので黒崎と名付けた 三日して築後の指図をし住むところを定め 九月十三日に高良山に御遷幸した 黒崎より高良山の道筋 ふちのところにかけた 第三一四条 

 阿志岐皇子 古奉天 高良 住厭にいて 住厭であると云い今の上宮のように居た 皇子も同じく今の所に下り 大祝 両所の遷宮をとりなし 大祝も 同じく耳垂橋より今の所に住んだ これは束帯を付いた所である。

 第三二三条 

 阿志岐の宮 抱え領は阿志岐大宮司屋敷の内である 宮を尊することは 大祝 座主 大宮司尊することである 遷宮も 上宮のように三職の役定まった

 第五一一条 

 高良山四方の固め住厭に納めた。 

 第五三三条 

 大善寺のこと高良大井台頭あれなれ川と云うところより 着かれて築後宇美の河内へ着いた皇后と共に都へ上り 仁徳天皇十七代に大善寺の前に着かれた。初めて着いた所なので台頭とし川の名を荒れ馴れ川とした 船を捨て置き この川の端にある黒崎より 船を造り酒見に上がり報労のり後見を始め九十九社の斉所を定め 大井高良に御遷幸してのち造られた また 酒見より黒崎に舟を呼び高良山のように御遷幸した この船を乗り捨てた所を黒崎大明神と崇め 黒木で造った舟なので黒崎と名付けた。 第五三三条 

 大善寺のこと高良大井太東荒馴川(上津荒木川)より御船に乗り筑前宇美に着いた。皇后と共に都に上り皇后崩御ののち十七代仁徳天皇 大善寺の前の川に着いた 大公の御船が初めて着いた場所なのでそこを荒馴川(あれなれかわ)と名付けた 御船を捨て置きその川にある黒崎より御船を造り酒見に上がり風浪後見を始め九十九社の斉所を定め高良御遷幸があって造った。また酒見より黒崎に御船を召し寄せ高良山のように御遷幸があった。その乗り捨てた御船を納めた場所を黒崎大明神と崇めた。黒木で造った船ゆえ黒崎と名付けた。 

 第五三七条 

 大善寺に 高良九品省は長久元年に高良山の様態を映した 

 解説 

 宮神秘書には高良住厭(すみあき)には三年居て 四方の八葉の石畳を一夜にして構え 住厭(すみあき)であるとと云い今の所に至るとある。 阿志岐皇子も住厭にいたとあるので初代 二代は共に住厭を居城としたことが判る。 住厭城の築城年代は定かではないが『高良山地名之事』に「住厭、城跡アリ、大谷ノ上、杉城トモ云、菊池氏ハ千千五百騎ニテ籠城也」とあり南北朝時代に菊池氏によって使用されていたと考えられる。 戦国時代には高良座主が勢力を持っており、それに関連する城郭とも考えられている。また豊後の大友氏の軍勢が高良山に布陣して筑後や肥前の龍造寺氏を攻めており、それに関連する城郭とも考えられている その後 玉垂命は大善寺に移り住んだことが記されている。 「隋書」「唐書」にある筑紫城が住厭城を指すのかは不明である。高良玉垂神秘書 訳文 https://kouratamadare.com/%e9%ab%98%e8%89%af%e7%8e%89%e5%9e%82%e7%a5%9e%e7%a7%98%e6%9b








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