本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

裏付けられた秀吉の中国大返しの嘘

2020年10月26日 | このブログのガイド
 2009年に拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』で1582年以来427年目にして初めて指摘したのが、豊臣秀吉の中国大返しは本人が捏造したスケジュールが定説となってしまっており、本当はもっと早くに撤収を開始していた、それは光秀の謀反が起きることを知っていたからだと仮説検証法によって主張しました。歴史学者は1958年に最高権威者とされる高柳光寿教授が『明智光秀』に書いた秀吉の嘘を史実として盲従してきました。2009年以降に、秀吉の嘘は九州大学服部英雄教授の論文によって裏付けられていたのですが、歴史学者の盲従は変わらなかったようです。ここへ来て播田 安弘氏が『日本史サイエンス』で科学的に証明してみせました。
 播田氏は、大返しに従軍した兵士の1日あたりの消費エネルギーを割り出すことによって、それが不可能なことを立証しました。

 この例のように、信ぴょう性ある史料を根拠として仮説検証法で突き詰めて出した答は、その後の裏付け捜査で新史料の発見などもあって、科学的に証明されていくものです。そこが単なる妄想と決定的に違うところです。

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1.これは徳川家康黒幕説である。
2.よって、陰謀論である。
3.陰謀論だから妄想である。

 この三段論法には一見誤りがなさそうです。だから多くの人が鵜呑みにして騙されてしまいます。
 ところが、1段目の「これは徳川家康黒幕説である」が嘘だったら、どうなりますか?
もちろん、2段目以降につながらなくなります。つまり3段目の「妄想である」が嘘と言うことになります。

 拙著『完全版 本能寺の変 431年目の真実』河出書房新社に書いた内容を、このような3段論法で誹謗中傷している人がいます。そのフェイクに踊らされている人もたくさんいます。あなたは「踊らされる人」でよいですか?
 ご自分の目と頭で1段目の「これは徳川家康黒幕説である」が本当なのかどうか確かめてみてはいかがでしょうか?
 世の中には同様のフェイクが蔓延しています。それらに騙されないように生きていくための演習だと思って、取り組んでみてください。世の中の見方が、がらっと変わるのではないでしょうか? フェイクに対する鑑識眼が格段に磨かれます。

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問 信長は中国(明)を攻めようとしていたのか?
 当時、日本に来ていたイエズス会宣教師の報告書にそう書かれています。「信長は毛利に勝利したら、一大艦隊を編成して明へ攻めこむ考えである」と。日本国内にはそう書いた史料が存在していないのですが、十年後に豊臣秀吉が唐入り(中国侵攻)の準備を始める際に、イエズス会に対して東シナ海を渡れる軍船とその操縦のできる航海士の提供を求めたことから考えると、信長の唐入りの意思がイエズス会のみに伝わったのも同じ理由からだと気付くでしょう。当時の日本にはそのような大型の軍船も航海士も存在しなかったのです。
 秀吉の唐入りの目的をイエズス会宣教師は「天下を統一して国内に新たな土地が無くなったので、家臣に与える土地を中国で確保するため」であるが、「これは表向きの目的で、本当の狙いは国内に置いておくと将来危険な人物を国外へ放逐するため」と分析しています。これは信長も同じだったでしょう。天下をとるような人物(天下人)は他人よりもはるかに先を読んで手を打っていたのです。
 イエズス会宣教師は秀吉の唐入りのニュースが伝わると日本中がパニックに陥ったと書いています。見も知らない国へ攻め込むのは死に行くようなものだと考え、きっと有力な武将が謀反を起こすとか、各地で謀反が起きるといった噂が乱れ飛んだとのことです。イエズス会宣教師が「謀反」という言葉を書いた事案はこれだけです。明智光秀が信長の唐入りを知ったら、どう考えたでしょう。当時の光秀の立場に立って考えてみてください。

問 信長はどうして家康を討とうとしたのか?
 戦国武将は自分の一族の生き残りを自分の責任として、その責任を果たすために最善を尽くして必死に生きていました。信長にとっては、その行きつく先が天下統一であり、唐入りだったのです。彼らが責任を負っていたのは自分一代のみのことではなく、子や孫や子孫代々への責任をも負っていました。
このことは先祖や子孫への感性が薄れた現代人にはピンと来ないことかもしれません。平家物語の描く悲劇は平清盛が自分一代で栄華を極めながら、自分の死後に一族滅亡をもたらしたことでした。琵琶法師の語る平家物語の悲劇を通じて、「平清盛の轍を踏むな!」が戦国武将の心に深く刻まれていました。
 そうならないように自分が生きている間に最善の手を打っておくことが天下人に求められていました。秦の始皇帝や豊臣秀吉は自分の死後に家臣によって子を殺されて天下を奪われました。彼らは明かに失敗したのです。
 一方、漢の国を建てた劉邦(高祖)は天下を取るとそれまで自分を支えてきた重臣を次々と殺して、四百年続く漢王朝の基礎を作り上げました。徳川家康も豊臣家を滅ぼして徳川の長期政権を築きました。彼らの所業は非情なものでしたが、天下人としては見事に成功したのです。
 このような武将の考え方を理解して歴史を見直すと、武将もずいぶん変わって見えてくると思います。父親の代から織田家と敵対し、祖父も父も信長の父の謀略で殺されたと考えている家康は何を考えたか、そのような家康を信長はどう見たか。彼らの立場に立って、考えてみてください。

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秀吉の陰謀と織田信雄バカ殿説の疑問 (長澤光国)
2021-02-09 10:30:02
私は、憲三郎さんの著書を読んで、一番のネックが信長による家康討ちがなぜあの時点で行われたのかという点でした。それに疑問視する意見に、まだ北条が健在なのにという意見があり、それも一応説得力があります。私はそう秀吉がしむけたと考えています。秀吉は常識となっていますが、身分低い身からひたすら出世を果たしてきました。さらに武将として見栄えも劣り、「先天性多指症」の疑いすらありました。こういった人はひたすら上を目指すことのみに邁進すると思います。その時に最も障碍となったのは、光秀よりも柴田勝家だったと思います。現に手取川陣戦線離脱を秀吉は起こしてます。その時処罰はまぬかれたものの、佐久間処分、特に林通勝は、遙か昔の信行(今は信勝が主流ですけど、信雄との混同を避けたいのでこう記ます。)荷担を理由に追放されてます。秀吉も遙か後になって手取川離脱を持ち出される事を考えたに違いありません。そして光秀肝煎りの「京都馬揃え」には織田家の重臣達がみな出席したのに、秀吉は招かれていません。中国平定に忙殺されていたとしても、代理人くらいは出席させるでしょう。当面身が危ないとはならないまでも、御館の乱で衰退した上杉家は本能寺直前には柴田軍によって、滅亡一歩手前でした。もし自分の毛利攻略より先に柴田の上杉攻略が完遂されてしまったら、秀吉の織田家中での出世は永劫に勝家を超えられないことになったでしょう。北陸・関東で争乱を起こし、柴田を牽制しなくては。家康が危険だ直ちに討伐軍を。彼はその筋を通じて信長に訴えたでしょう。だが、彼には信長の深慮遠謀をいまいち見抜けませんでした。信長は家康追討を光秀に任したのです。しかも東国での争乱にならないように家康のみをピンポイントで暗殺する妙案を。ここでその筋というのが信雄だったのでは。彼はずっと家康を危険視してきたのです。だから無謀とも思うような第一次伊賀攻撃を敢行したのでは。伊賀の者達は、将来家康の大きな力になる。事実天正伊賀の乱以降、逃れてきた伊賀者を三河で保護しました。そして後にバカ殿の汚名を決定的にした本能寺の変後、近江、伊勢周辺を無駄にうろつき、安土城を焼いた犯人にも疑われる結果を招いた事実ですが、うすうす本能寺に家康の関与を疑い、その変後の妙な動きに反応しての事だったんではないでしょうか。後に秀吉から織田家を守る為に家康と組んで小牧・長久手の戦いを始めるのですが、家康が秀次隊を破って膠着状態になると、突然家康と手を切り、秀吉と単独講和します。これもバカ殿の証明だ言われてますけど、この時点で彼は本能寺への家康の関与の確証を得たのではないでしょうか。こうなれば、秀吉傘下で織田家の血だけを守ることに専念しようと。考えてみれば信長の息子は、信忠、信雄、信孝3人だけではありません。数ある息子達から最終的に後継候補に残った信雄が三谷幸喜に「清洲会議」で徹底的に茶化される存在だった筈が無いと思います。最後に妄想をたくましく考えれば、もし本能寺がなければ、信長自らの毛利攻めの陣頭を願い出た秀吉こそ毛利と裏で結託して、陣中で信長暗殺をした可能性もと密かに考えています。

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