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2020年02月20日

志村けん (ザ・ドリフターズ)

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志村 けん(しむら けん、1950年〈昭和25年〉2月20日 - )は、日本の男性コメディアン、お笑いタレント、司会者。ザ・ドリフターズのメンバー。イザワオフィス所属。1972年までの旧芸名および中国語での表記は「志村 健」。本名は志村 康徳(しむら やすのり)。

1968年2月、高校卒業間際にいかりや長介の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願する。由利徹やコント55号とザ・ドリフターズ(以下ドリフ)のいずれに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選んだ(高校二年時に実際に由利徹のもとを訪ね弟子入りを志願したが断られている)。雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも、門前払い同然の扱いで、容赦なく突き放されたが、それでも食い下がったため根性を買われ、「バンドボーイ」が辞めてメンバーに欠員が出たらという条件で仮採用された。いかりやは後に「帰宅すると勝手に居ただけで待っててくれと言った覚えはない」と語った。一週間後に呼び出された後楽園ホールで、いかりやから正式に採用を告げられた志村が、「じゃあ(高校)卒業したら来ます!」と答えると、「バーカ、明日から行くんだよ、青森に!」と言われ、翌日から青森巡業などへ同行させられるなど、すぐに多忙となり、高校卒業式は当日の午前中だけ時間を貰い慌ただしく式に出席し、仕事に戻ったという。

加藤茶の付き人となるが、1年余りで一度脱走し、バーテンダーなどのアルバイトをしたりしていた。仲間が伝えるのを忘れたせいで脱走したとメンバー内で騒がれていた。戻ってくる時はいかりやの家に行きにくかったので、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、「二度も弟子入りする奴は、よくよく好きなんだろう」と出戻りを認めてくれた。その後、しばらく加藤の付き人兼加藤家居候となる。

1972年、22歳の時に井山淳とお笑いコンビ・「マックボンボン」を結成し、「志村健」の芸名(この芸名は、現在台湾で使用されている)で芸能界デビュー。

志村はその後ドリフターズの付き人に戻ったが、戻った直後の1973年12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入する。

1974年3月31日をもって荒井注が脱退し、4月1日に正式にドリフのメンバーとなる。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバー豊岡豊の加入、及び、すわしんじの昇格も検討していたが、志村の順番であったことと加藤の推薦により若手の志村が起用された。当時、志村は24歳だった。

ドリフメンバーとなり、楽器はギターを担当するようになった。

ドリフの正メンバーになって2年間ほど(この頃の芸名は「志村ケン」の表記もあった)は、ギャグがあまりウケず、志村にとってスランプの時代であった。

転機となったのは、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。

1979年には加藤茶との「ヒゲダンス」、1980年には「♪カラスの勝手でしょ〜(童謡『七つの子』の替え唄)」が人気を博した。

1985年に『全員集合』が終了。1986年に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタート。加藤がボケで、志村がツッコミを担当する。その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』、『志村けんのだいじょうぶだぁ』(現在は単発不定期で放送中)、現在も続く『志村けんのバカ殿様』などで、ドリフメンバー以外(田代まさし・松本典子・桑野信義・石野陽子・ダチョウ倶楽部)との活動が多くなる。この頃から「変なおじさん」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなる。

志村けん - Wikipedia

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